Sunny (23)
食は、衣食住のヒエラルキーの頂点だと思う。敷居が低くて、間口がひろい。無いと生きていけない。だれかと仲良くなるにはぜったい食が必要だし、食卓を囲む・囲まないで、ぜんぜん違うから。そんな世界で本気で働いているひとたちって、絶対おもしろい。
CHAPTER
今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を
CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。
●出身地はどちらですか?
大阪の吹田市です。
●両親や家族のことについて聞かせてください。
実家は『HIKARIS hair』という美容室をやっていて、2023年で93周年を迎えます。ひいおばあちゃんの代から家族直系で続けていて、いまは大阪に4店舗をかまえています。パパが社長を務めていますが、モード学園(※1)美容学科の学科長もやっていて。お母さんは、もともと札幌の美容室で働いていたらしいのですが、嫁いできて、私が生まれる前までは実家の美容室で働いていたそうです。いまは介護の資格をとって、訪問美容の仕事をしています。
※1:大阪府大阪市北区にある、デザイナーやスタイリストなどのクリエイターの育成を目的とした専修学校。
●実家が歴史ある美容室であることを、小さい頃はどのように感じていましたか?
本店の2階がおばあちゃんちだったので、そこへ行くたび、スタッフさんをはじめ、いろんな大人たちに会っていました。そこは地元の商店街で、私自身もそのエリアに住んでいたので、つねにひとの目を気にする状況にありましたね。だから、私にはデレデレでも基本的に厳しいおじいちゃんからは、よく礼儀作法のことで細かく言われたりしてました。それもあって、こう見えてもひとの気持ちは自然と汲める方(笑)。 パパにも似たようなところがあって、超社交的に見えて、じつは気を遣うところはすごく遣っていて、ガラスのハートなんです(笑)。
●家族のなかでいちばん気の置けない存在は、お父さんでしたか?
パパのことは大好きです! 進路のことも、仕事のことも、悩みはかならず相談してきました。ビジュアルはちょっとコワモテですけど、みんなから愛されるパパ。でも、親戚ふくめて家族みんないつも一緒で、いまでも「離れた」と感じることもあまりないかも。あと、小さい頃は両親が共働きだったので、おじいちゃん、おばあちゃんっ子でもあります。
●厳しい面もあったというおじいさんのことですね。
もう亡くなりましたが、おじいちゃんには、いまでも会いたいなって思います。おばあちゃんは、いま80代後半ですが、まだ現役の美容師なんです。めちゃくちゃリスペクトしていて。あと、会ったことはないですが、会社を立ち上げたひいおばあちゃんのことも。
●どんなことを聞いていますか?
もともと旅館の娘で、でも「私は美容師になる」って家を飛び出して、行き着いたのが吹田だったそうです。いまでこそ女性の地位向上やフェミニズム的な考えが日本でも少しずつ広まっているなか、戦後の時代に女性がひとりで道を切り開いたというのは、本当にすごいことですよね。いまはパパが経営する立場ですが、その意思は、いつか私もつないでいきたいと思っています。
おなじ場所にいつづけることのおもしろくなさ、怖さ、みたいなものを感じていた。友達もいるし実家だってあるけれど、「なんか刺激足りないな」って。
●実家を継ぐことを考えながら、いまは離れた場所に。その経緯について聞かせてもらえますか?
「ひとの気持ちを汲むのが得意になった」と話しましたが、だからこそ、「生きづらいな」って感じる瞬間もたくさんあったんです。とくに思春期の頃は、まわりに合わせるのがベターだと思ってしまって、自分の判断ができないことが多かった。高校の頃までは、「いい子だね」「やさしいね」なんてことをよく言われていましたが、「それって私の本心だっけ?」とも、つねに思ってて。
●まわりに合わせて“いい子”になりすぎて、自分の意思がわからなくなっていた。
そういう気持ちは、中学時代からずっと持っていました。それが、東京へ出ようと思った理由でもあります。おなじ場所にいつづけることのおもしろくなさ、怖さ、みたいなものを感じていた。だって、それって馴れ合いじゃないですか。友達もいるし実家だってあるけど、「なんか刺激足りないな」って。
●上京するまではなにをしていましたか?
高校を卒業してから、『大阪文化服装学院』(※2)のスタイリスト科に通っていました。同時に、高3の秋からはモード学園の通信科で美容の勉強もしていて。だから2年間は二本柱だった。美容の方は、国家資格もとりました。
※2:1946年創立、大阪府大阪市淀川区にある服飾関係の専門学校。
●実家を継ぐための美容の勉強もしつつ、服飾の専門学校へ通った理由は?
実家を継ぐ前に、一度、早めに社会へ出たいと思っていたんです。それに、頭はそんなによくなかったので、その時点で選べる大学で4年間過ごすより、2年間でぎゅっとまなぶ方がいいと思った。美容の方は、あとからなんとでもなるよう、とりあえず国家資格である美容師免許だけはとっておこうと思って。で、社会に出る前にやりたいことを考えたとき、美容の次に興味があるのは洋服だなと思ったんです。髪と服って超密接だから、コレだ、と思って。
●国家資格だけはとっておこう、という考えに、奔放な性格の裏にあるSunnyさんの真面目さが垣間見えますね。
そうなんですよ! 私のB面(笑)。 こう見えてけっこう真面目だなって、自分でも思います(笑) 。ただ、洋服のことも美容のことも、ゆくゆくはつながるだろうなって思っていました。どちらも目の前にあって、「一緒に生きてる」みたいな感覚があったから。だから一緒にまなぶのはいいことだよなって。
0から1をつくるより、1を100にするほうが性に合う。それなら、スタイリストの仕事が向いてるんじゃないか、と思った。
●服飾の専門学校に入り、なかでもスタイリスト科を選んだのはどうしてですか?
古着を組み合わせて着るのが好きだったからです。0から1をつくるより、1を100にするほうが性に合う。それなら、スタイリストの仕事が向いてるんじゃないか、と思ったんです。小さい頃から、真似してつくるとか、コラージュするのが好きでした。洋服に置き換えても、それは一緒だと思った。
●入学してまなんでみると、実際、その見立て通りでしたか? 印象に残っていることは?
結果的には、卒業までに受賞できる3つの賞を、すべていただくことができました。なかでも卒業作品展のときは学年全体のリーダーみたいな役割もしていたので、両方をうまくこなさなければならなかった。いかに時間をかけず作品の完成度を高められるかと考えた結果、あくまでスタイリングを見せる場ということで、ヘアメイクの時間を削ることにしたり。そうして引き算していった結果がうまくハマって、賞をもらうことができました。
●いままで培ってきた自分のセンスや考えが、間違ってなかったことがわかったわけですね。
学生生活のなかで賞をまったく取れなかったらスタイリストになるのは諦めよう、とも思っていました。そうして卒業単位を取り終えた段階で、卒業まではまだ時間が余っていたので、留学に行きたかったのですが、コロナがはじまってしまって……。日本でできることはなにかと考えて、上京してスタイリストのアシスタントをすることに。
20年間突っ走ってきただけに、自分の心と向き合う時間を持てていなかった。だから、いちど立ち止まってじっくりと考えたり、自分のためになにかしたりする時間をつくろうと思った。
●東京へ行くことを選んだ理由は? また、師事するスタイリストを選んだ決め手はありますか?
やっぱり、スタイリストの仕事をするなら、プロの現場は東京だろうというイメージがあったんです。ありがたいことに縁にめぐまれ、第一線で活躍するスタイリストさんにつくことができました。その方の、スタイリングや色味が好きだったんです。雑誌の誌面づくりや、アーティストとの仕事に多く携わっていることにも惹かれて。というのも、さまざまなひとと一緒になにかをつくり上げることに憧れていたから。
●洋服が好きというより、そうした現場が好きだったと。
そうなんです。そのことには、働くなかでも段々と気づいてしまって。たくさんのことをまなぶことができましたが、服に100%向き合えない自分に葛藤するようになり、結局その仕事は辞めてしまいました。
●その葛藤について、もう少し詳しく教えてください。
単純に、「どうしてこんなに頑張れないんだろう」って悩むことが多かったですね。そもそもスタイリストを目指したのは、実家の美容室になにかしら貢献できるものが得られれば、と思ってのことでした。でも、その“なにか”が不明瞭すぎて頑張れなかった。ふわふわしてて、「ゴールどこだっけ?」って見失いがちでした。
●その葛藤を経て、スタイリストの仕事をはなれ、それからは?
20年間突っ走ってきただけに、自分の心と向き合う時間を持てていなかった。だから、いちど立ち止まってじっくりと考えたり、自分のためになにかしたりする時間をつくろうと思いました。その後1年半くらいかけて、やっと自分の心と対話している実感があります。
食は、衣食住のヒエラルキーの頂点だと思う。敷居が低くて、間口がひろい。無いと生きていけない。だれかと仲良くなるにはぜったい食が必要だし、食卓を囲む・囲まないで、ぜんぜん違うから。そんな世界で本気で働いているひとたちって、絶対おもしろい。
●その1年半のあいだ、具体的にはどんな風に自分と向き合いながら過ごしてきましたか?
じっくり自分と向き合うといっても、やっぱりだれかに求められてないと生きていけないので、なにかしらアルバイトはしたかった。それで、『カフェ・カンパニー』(※3)に入社しました。携わったのは『PUBLIC HOUSE Yoyogi Uehara』(※4)という新規店舗の立ち上げ。食のコミュニティ型ECサイト『GOOD EAT CLUB』の実店舗という位置付けです。衣食住の“衣”はやったから、次は“食”をっていう気持ちで選んだのですが、入ってみると、“仲間たちとなにかをつくり上げる現場”という意味ではそれまで目指していた働き方と通じていることに気づきました。
※3:2001年創業。「CAFE = Community Access For Everyone(食を通じたコミュニティの創造)」という理念をかかげ、路面や商業施設内の飲食店、サービスエリア、ホテルなど、日本国内外において100店舗以上を企画・運営する。また2021年からは、多様でサステナブルな社会を実現するため、「イートテック」を推進することで「Eating Design Company」を目指す。
※4:代々木上原にあるオールデイダイニング。ナチュラルワインをはじめとしたお酒に、「GOOD EAT=愛すべき食」をコンセプトに日本中から集めた逸品食材を使った料理をカジュアルに楽しめる。
●とくに新店の立ち上げというと、目標に向かうモチベーションの高いひとたちが集まってくるイメージがあります。
そう、だからなおさら刺激的でしたね。地下一階はイベントスペースなので、日々いろんなひとが集まってくる。出会いにも、ものすごく恵まれました。実際、そこで出会ったオザワアヤトくんがプロデュースする『chotto』(※5)で働くことにもなったり。
※5:下北沢線路跡地の個店街「reload」の一角にあるシーシャカフェ。ノンニコチンのシーシャ・ノンアルコールのドリンクメニューを多数取り揃え、クリーンで心地よいシーシャを楽しめる。
●洋服の世界から、食の世界へ。両方を経験したからこそ見えてきたことはありますか?
食って、衣食住のヒエラルキーの頂点だと思っています。敷居が低くて、間口がひろい。無いと生きていけない。だれかと仲良くなるにはぜったい食が必要だし、食卓を囲む・囲まないで、ぜんぜん違うから。そんな世界で本気で働いているひとたちって、絶対おもしろいだろうと思った。超リスペクトしてます。ちなみに、スタイリストの現場と食の現場、両方を経験したからこそ感じるのは、食の現場は“湯気”みたいってこと。ほわほわ、もふもふで、硬さがなくて。幸せのイメージ。
●面白い感覚ですね。でも、すごくよくわかる気がします。
あと、食にも興味があるけど、おなじくらい“性”にも興味があります。きっかけは、高校2年生のとき、『カルネボレンテ』(※5)というフランスのブランドを知ったこと。セクシャリティを大胆にテーマに打ち出していることに、当時ものすごい衝撃を受けました。影響されて、専門学生の頃、私もショーのテーマにセクシャリティを据えていたほど。
※5:パリに拠点を置くアーティスト集団によって設立されたファッション及び出版ブランド
1年間、自分としっかり向き合って、さまざまなひとと出会えたおかげで、いま、自分のやりたいことをカタチにできる段階にある。だから、今年は“攻め”の1年。ロックに生きたい。
●さきほどの話でいうと、食も性も、どちらも無いと生きていけない、万人にかかわるテーマですね。
性って、日本ではセンシティブに語られがちだけど、そのひとのいちばんプライベートな部分や、意外性を垣間見られる大事なテーマ。最大のコミュニケーションですし。あと、食べる行為って、結構エロいなと思うんです。
●食と性もかかわっていると?
考えてみてほしいんですけど、たとえばだれかと結婚したとして、私がつくる料理をそのひとは毎日口に入れて、それが活力になって、血液になる。「私がコントロールしてる」「生きさせてる」って、めちゃくちゃエロくないですか?(笑) 。とにかく、だれもが、もっとフラットに性について話せるようになればいいなと思っています。それは自分を見つめ直すことにもつながると思うんです。実際、私も、性への関心を通じて政治や社会、環境問題などへも目を向けるようになりました。
●服も食も性も、互いにリンクする部分があり、またSunnyさん自身も、いまそれらのつながりのなかで活動をしているわけですね。それを今後、まわりまわって家業へもつなげていこうと考えている?
2022年の1年間、いろいろなひとと会話したことで、ようやく今年、自分が目指すべき像が見えてきました。それは、実家の美容室が100周年のタイミングで、私がなにか新しい事業を組み込むこと。同時に、美容師さんの地位向上を目指すこと。そのために、いまはできるだけ多くの美容師さんとのつながりをつくり、話を聞いて、業界のことをもっと知りたいと思っています。
●最後に、将来の夢についても聞かせてください。
いま、『Nongkrong』というコミュニティスペースを、仲間と一緒に立ち上げて運営しています。イベントの企画・運営がおもな活動内容で、わたしたちの世代が表現したいことを表現したり、フラットに話したりできる場所をつくっていて。そこでさっき話したカルネに戻るのですが、彼らは、最近のインタビューで「セクシャリティをテーマに気軽に話せる場をつくりたい」と話していて。それってまさに、いまわたしがやっていることとつながる。だから、いつかフランスに行って、カルネと一緒に仕事をしたいんです。1年間、自分としっかり向き合って、さまざまなひとと出会えたおかげで、いま、自分のやりたいことをカタチにできる段階にあります。だから、今年は“攻め”の1年。「ロックに生きる」って、書き初めでも書いたんですよ(笑)。
Profile:Sunny
大阪府出身。1999年生まれ、23歳。
大阪文化服装学院&モード学園を卒業後、2年前に東京へ。現在は飲食店で働きながら、自身と仲間達でイベント運営や企画をしている。
Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : mitsuharu yamamura(BOOKLUCK)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)
2023.3.12