TEPPEI (29)
得意なコミュニケーションをベースに、好きなことを重ねることで、企画のパワーを何倍にも大きくする。20代前半までは、得意なことか好きなことか、どちらかしか選べないだろうと思っていた。でも、スキルを生かして働きながら、そこに好きを混ぜ込めばいい。そう気づいた。
CHAPTER
今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を
CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。
●出身地はどちらですか?
生まれは横浜ですが、すぐに大分県に引っ越し、別府市で高校時代までを過ごしました。田舎のなかでもちょっとした観光地で、温泉もあるし、山も海もあって。コンパクトだけどなんでもある、いいところでしたね。
●小さい頃も同じように感じていましたか?
小さい頃は、そうじゃなかったかも。温泉なんてぜんぜん興味なかったですから。横浜のほうがよかったな、と思いながら過ごしていました。
●子ども時代、ほかにどんなことが記憶に残っていますか?
友達と外で遊ぶことが多かったです。とくに、勝ち負けのない遊びが好きで。缶蹴りとか、みんなでエンドレスに繰り返すような遊び。当時、勝負ごとがすごく苦手で、それがコンプレックスだったんです。
●どうして苦手だったのでしょうか?
横並びでいいじゃん、みたいな気持ちでした。勝ち負けがあるような遊びは、「俺は横で見ておくよ」みたいな感じでやり過ごしていた。
●では、学校で運動部に入ったりもしなかった?
いえ、お兄ちゃんが野球をしていたので、小中は野球部に入っていました。でも、そもそもノリも好きになれなくて、試合に出るのもやっぱり嫌でしたね。監督は僕のことを買ってくれて、試合に出してくれようとするんですが、「俺、ベンチでいいです」って。俺が出てミスして、それでチームが負けたらどうしよう……、みたいに気が重くて。
野球は団体競技だから、自分がエラーをするとチームに迷惑をかけてしまう。そこに苦手意識を持っていた。でもフェンシングなら、負けてもただ自分の責任で、それが気持ちよかった。
●そうした自信のなさが、勝負ごとが苦手な理由だったと。
あとは、顔色を伺ったり、気を遣いすぎたりするところもあったと思います。小学校の頃から、まわりにどう思われるかをつねに気にしていました。「一緒に帰ろう」って誘っても、断られたらどうしよう、みたいな。
●そうした性分は、だれかやなにかの影響なのでしょうか?
もしかしたら、お母さんに似ているところかもしれません。お父さんは板前をやっていて、自分のお店を出したり海外で働いたりと、ひとつの場所にとどまらず働いてきたのですが、母は黙ってそれに合わせてやってきたひとで。一方で、お兄ちゃんはわりとお父さんに似ていて。ギャンブルが大好きで、自信があって頭もよくて。それもコンプレックスだったのかもしれません。
●小中では野球をやって、その後は?
高校へ行って、フェンシング部に入りました。中学のときの野球部のコーチが、その高校のフェンシング部のOBで、勧められたんです。遊びに行ってみたらすごく楽しくて、やってみることに。そのフェンシング部の顧問の先生からは、大きく影響を受けました。
●どんな人物でしたか?
昔、ナショナルチームでフェンシングをやっていて、世界大会や世界選手権にも出場したことのあるひとでした。そんなすごいひとには、それまでの人生でもちろん出会ったことがなかったし、フェンシングの世界における騎士道精神みたいなものをまさに体現しているようなひとで、それが格好良かったんですよね。経験も大きいし、考えも深い。面白い先生だなと思いました。最初に、「まだ競技人口が少ないフェンシングなら、絶対にインターハイに出られる」言われたんです。なにで出るかより、出る経験のほうが大事だし、高校生のこの時期には、絶対にそうした経験をしたほうがいい、って。僕の人生をきちんと考えてくれているんだなと、そのとき思いました
●フェンシングの競技についてはどうでしたか?
野球は団体競技なので、俺がエラーをするとチームに迷惑をかけてしまう。だから、苦手意識を持っていました。でもフェンシングなら、俺が負けてもただ俺の責任で、それが気持ちよかったんですよね。それに、競技人口も指導者も少なかったので、ルールを知れば知るほど勝ち易くなる。実際、きちんと練習をしていけば勝つことができたんです。すると、もっと上手くなりたいと思うようになっていって。気づいたらインターハイに出ていて、東京で2位になっていました。その後、国際大会にも出られるようになって、アジアとヨーロッパへ遠征に。
フェンシングを通じて、さまざまな場所へ行き、いろんな友達ができた。海外で知り合った選手も、いまでも友達で、いつでも遊びに行く場所はあるという感覚。その経験はアドバンテージだと思う。フェンシングが上手くなったことより、そのことが、なにより嬉しくて。
●メキメキと実力をつけていった。すごいですね。世界に出て、なにを感じましたか?
見てきたもので自分の動きは変わる、と思い知りました。それまで僕がやっていたのは、僕ら日本人のフェンシングだったんです。海外の選手は、めちゃくちゃ自由で強いんですよね。もう盗めることだらけというか。実際、試合をしながらどんどん順応していくのがわかりました。勝てないけど、向こうに合わせていつもの5倍くらい動いていました。その後、日本に帰ってすぐの試合では、目にも止まらぬスピードで点を取ったんです。「あれ、俺いまやばい感じで点取ったぞ……!」って。
●自由で強い。その感覚を掴んで、いつのまにかモノにしていた。
フェンシングを通じて、海外も含めてさまざまな場所へ行くことができて、そこでいろんな友達ができました。それも、すごく楽しかったことで。海外で知り合った選手は、いまでも友達で、いま俺は東京にいるけどいつでも遊びに行く場所はある、っていう感覚。東京にも北海道にも、ハンガリーにもフィリピンにも友達がいて、またいつでも行くことができる。その経験は、俺にとってものすごいアドバンテージだなって思っています。フェンシングが上手くなったことより、そのことが、なにより嬉しくて。
●ただ競技としてだけでなく、フェンシングを通してさまざまなコミュニケーションや価値に触れてきたわけですね。
それまで大分県の片田舎で小さく生きていたのに、急に世界が広がりはじめた。いまでも、そのときに培ったコミュニケーションスキルを糧に生きている感覚です。いま自分が好きなものも、そのときに、ある意味見つけてしまった。
得意なコミュニケーションをベースに、好きなことを重ねることで、企画のパワーを何倍にも大きくする。20代前半までは、得意なことか好きなことか、どちらかしか選べないだろうと思っていた。でも、スキルを生かして働きながら、そこに好きを混ぜ込めばいい。そう気づいた。
●その後の進路について聞かせてください。
フェンシングで推薦をもらうことができて、東京の大学に入ることに。でも強豪校だったので、それまで勝てていたのがだんだんと勝てなくなって。かたや、せっかく東京へ来たからには、自分が好きな音楽や洋服、カルチャーについて、もっともっと広げていきたいと考えるようになって。フェンシングからは気持ちが離れていき、在学中はとにかくライブハウスなどによく通っていました。大学自体も楽しくなくて、2回くらい辞めそうになりながら、なんとか卒業。企業に就職しましたが、肌にあわず、すぐに辞めちゃって。その後は大学在学中にバイトしていたDJバーで働きはじめました。そこでも、フェンシング部のときと同じように、さまざまな面白いひとたちとの出会いがありました。自分が知らない人生観をもつひとや働き方をしているひとたちに、たくさん出会うことができた。
●ひととの出会いの多い場所や環境が、本当に好きなのですね。その頃出会ったなかで、とくに影響を受けたひとはいますか?
一番は、DJバーのオーナーですね。そのひとの考えるイベントがとにかく面白くて。イベントの企画術も教わり、いつしか自分でイベントを企画するようにも。最初にやったのは自分の誕生日パーティでした。初めての経験でしたが、意外と多くのひとが来てくれて。バイトでお金をもらう、とかじゃなくて、初めて自分でつくった仕事だったので、そうした意味でもすごく楽しかったですね。それがきっかけで、ひとのコミュニケーションで動く場にずっといたい、という思いを強くしました。
●なるほど、ちなみに教わった「企画術」というのは、具体的にはどういったものでしたか?
自分のスキルと自分の好きを、組み合わせること。たとえばある生産者のワインイベントを企画するとします。その生産者について調べていくと、じつはパンクが好きだとわかった。なら自分も音楽が好きなので、パンクミュージックとワインを掛け合わせた企画内容を考える。というような感じです。得意なコミュニケーションをベースに、そこに好きなことを重ねることで、企画のパワーを何倍にも大きくする。20代前半までは、得意なことか好きなことか、そのどちらかしか選べないだろうと思って、悩みまくっていました。でも、コミュニケーション能力を生かして働きながら、好きな音楽や洋服などのカルチャーを混ぜ込めばいい。そのことに気づいて、DJバーで働きながら、それを少しずつ形にしていくこともできました。
●スキルと好きを混ぜ合わせることが、オリジナリティになるわけですね。
そうですね。俺は俺のオリジナルを、どれだけ面白くつくれるか。そうやって行動していると、それまでは雲の上だと思っていたいろんな格好良いひとたちとも対等に関われるようになってきて。すると、またどんどん新しい出会いを求めるようになっていって。もう“出会いジャンキー”みたいになっちゃって(笑) でも、俺は、これからもそんな風に暮らしていきたいと思っています。
身ひとつでいいと、つねに思っている。だから、まだ「20代、2回目」みたいな気持ちでいられる。この先も、ただただ、自分のコミュニケーションスキルひとつを武器に、切り拓いていければと。
●いま、30歳というひとつの節目を前に、その先に見据えている景色などはありますか?
結婚したいとか、家庭をもちたいとかって、あまりないんですよ。身ひとつでいいって、つねに思っています。だから、まだ「20代、2回目」みたいな気持ちでいられるというか。とにかく行き当たりばったりで、この先も、自分の興味のあることに向かって進んでいければいいなと思っています。ただただ、自分のコミュニケーションスキルひとつを武器に、切り拓いていければと。
●まさに、剣ひとつで戦っていくフェンシングみたいですね。
でも、憧れみたいなものはありますよ。20代中盤の頃に格好良いなと思っていたのは、パドラーズの松島さん(※1)でした。自分の好きなスケートボードや音楽を、コーヒーという仕事に結びつけることでムーブメントを起こし、その価値をコミュニケーションの力でワールドワイドに表現してきた。そんな生き方や働き方をしたいなと、ずっと考えていました。
※1:アメリカ・ポートランドの「Stumptown Coffee Roasters」の新鮮な豆を直輸入して使用しているコーヒーショップ。コーヒーが溶け込む日常を自然と感じられ、店舗に併設したギャラリースペースではアーティストの展示などが開催される。
●パドラーズも飲食店ですね。自分のしたいことを表現するうえで、飲食店という場にポテンシャルを感じていますか?
まさにそうですね。飲食店はめちゃくちゃ好きで。親父も板前でしたし、初めてやったバイトも飲食系でした。俺は飲食店の接客が好きだし、自分のベースに間違いなくあると思う。だから、飲食店という土俵で自分の好きを表現するいまのスタイルが、超好きで。俺が好きな音楽やカルチャーと、飲食店、その組み合わせって相性もバッチリだと思いますし。
Profile:TEPPEI
1993年生まれ、大分県出身。
日本橋兜町の複合施設〈K5〉のメインダイニング〈caveman〉でサービスマンを務めながら、音楽と食をからめたイベント企画なども行う。趣味はサウナととんかつ屋のDIG
Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : mitsuharu yamamura(BOOKLUCK)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)
2023.5.30