脊戸 壮介 (28)
圧倒的な威厳のあるひと皿は、いろんなものが積み重なりあって、やっと、偶然に起きるようなものだと思う。自分の店をこれから30年間やっても、もしかしたらできないかもしれない。でも、目指さないと、一生辿り着けないと思うから。
CHAPTER
今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を
CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。
●子どもの頃のことで、とくに印象に残っていることはありますか?
母方のおじいちゃんが定食屋をやっていたのですが、家族でおじいちゃんの料理を食べに行くのが好きな時間でした。僕は、いつも決まって、枝豆と、キャベツの味噌炒めを頼んでいました。
●それが、食に興味を抱くきっかけだったのでしょうか?
男のひとが料理をすることに抵抗や違和感がまったくなかったのは、おじいちゃんの影響かもしれません。でも、高校生くらいまでは、食べるのが好きじゃありませんでした。厳しい野球部に入っていて、体を大きくするために、とにかく食べなければいけなくて。だから食事は、質より量。作業であり、義務でした。でも、つくるのは好きでしたね。
●食べることとつくることが、はっきりと分かれていた?
僕のなかではまったく別物でした。つくると言っても、自分で食べるものをつくるのではなくて、つくったものをひとに食べてもらうのですが。
●料理をつくりはじめたきっかけは?
モテたいからです(笑) 最初は中学生の頃、友達につくって喜んでもらえるのがうれしかった。高校の頃は、バレンタインになにかつくっていくと気になる女の子に褒めてもらえる、とか。そういうのがモチベーションでしたね。母親に食べてもらうことも多かったですね。いまでも、職場が替わればまず母に来てもらうようにしていますし。
そこで出合った料理は、それまで知っていたものとは構造から違っていて、わからなかった。でも、わからないものにはやっぱり魅力があって。だから憧れて、そのあとも追いかけたのかもしれない。
●自分の得意とすることだという意識もあったのでしょうね。
そうですね。当時にしてはですけど、わりとそれなりにできたから、楽しかったんだと思います。それが高じて、高校2年生頃には、料理人になろうと決めていました。卒業したらイタリアの調理師学校へ行って勉強しようと。
●どうしてイタリアだったのですか?
得意料理がパスタだったんです。わりと直感で選ぶタイプで……(笑) 両親には反対されました。定食屋をやっているのは母方のおじいちゃんでしたが、父方の両親も民宿や料理を仕事にしていただけに、「大変だからやめた方がいい」って。でも、時代も違うし、やり方を変えれば大変さもなんとかなる、別に大丈夫でしょう、くらいに思っていました。最終的には両親も応援してくれて、とても感謝しています。
●そして、イタリアへ。どんな風に過ごしたのでしょう? 印象に残っていることはありますか?
それが、あまり覚えていないんですよね。レストランで働いたのですが、その働いていた店の名前も思い出せないくらい、昔のことってほとんど覚えていなくて……。でも、行ってよかったと思えたのは、現地で出会ったひとにデンマークのkadeau(※1)というレストランのことを教えてもらったこと。向こうにいるあいだに一度食べに行って、それで、自分の料理観がガラッと変わりました。
※1:ミシュランで二つ星を獲得したレストラン。バルト海に浮かぶデンマークの小さな島、ボーンホルム島をルーツとし、食への探求を続ける。
●なにに感銘を受けたのですか?
まず、そこで働いているひとたちや、その空間のかっこよさです。イタリア料理の店って、わりとパワフルで力強い感じなのですが、kadeauは、従業員の歩き方や動きが優雅で、声のトーンまで気持ちいい。料理もそれまで知っていたものとは構造から違っていて、衝撃を受けました。
●料理が構造から違っていた、というのは具体的にどういったことですか? 料理のおいしさにも結びつくような?
正直、そのときはわからなかったんです。よくわからない料理が出てきて、でも、かっこいいとだけは感じられて。わからないものって、やっぱり魅力があるじゃないですか。わからなかったから憧れて、そのあとも追いかけたのかもしれません。料理を志してこの世界に入ったものの、最初の1、2年はそうしたものに出合えなくて、どうしようかと悩んでいた時期でもあって。kadeauに出合えたから、まだ続けてみようって思えたんです。
世界中の有名レストランのシェフと働いて、自分の“ものさし”ができた。料理の味や、シェフの人間性、料理に対する考え方や情熱を、世間の評価抜きに、自分の尺度で測れるようになったというか。
●その後は日本へ帰ってきたのでしょうか?
そうです。19歳で東京へ戻ってきて、代々木上原のCelaravird(※2)で2年くらい働きました。そのあと、世界中から有名シェフを1週間ごとに招くスタイルのCOOK JAPAN PROJECT(※3)で10ヶ月間行われたイベントに参加しました。
※2:代々木上原にあるレストラン。国産食材と新しいテクニックで日本の季節を表現する。
※3:2019年4月~2020年1月に東京・日本橋にて開催された世界のスターシェフによる数日限りのリミテッドレストラン。
●まず、Celaravirdで働いていたときのことについて聞かせてください。
スペインの三ツ星レストラン・El Bulli(※4)みたいな、分子ガストロノミー的な料理を出す店でした。それまで経験してきたイタリア料理とは、仕込みの考え方が大きく違っていて、パーツも多く、それも事前に仕込んでおかなくてはいけないものがほとんどでした。当時は、せっかく料理人なら、素材を活かすだけでなく加工することを学びたい、と考えていたタイミングだったので、まさにそうしたことを学べました。
※4:スペインのカタルーニャ州コスタ・ブラバのロザスにあった三つ星レストラン。「世界一予約が取れないレストラン」と呼ばれていた。
●実際そうした料理の仕方を経験して、肌に合っていましたか?
はい。向き不向きでいうと、スピードや直感で料理するより、緻密に考えて組み立ていく方が向いていました。でも一方で、「ちゃんと料理したい」という気持ちも湧いてきて。切ったり、焼いたり、味つけたり、基本的な調理を自分の直感で決めて積み重ねていくような、そういう料理をしたい欲も溜まっていて。その悩みを解消するために、COOK JAPAN PROJECTに入ったところもあります。
●世界中のさまざまな店の料理を見て、視野を広げるという意味で?
そうです。その店は、kadeauやCENTRAL(※5)など、世界的に非常に注目されているレストランを代わるがわる招待していましたから。
※5:ペルー・リマにあるペルー料理店。「世界のベストレストラン50」の2023年版で世界一のレストランとなった。
●どんな学びを得ましたか?
自分の“ものさし”ができた気がします。料理の味や、シェフの人間性、料理に対する考え方や情熱を、世間の評価抜きに、自分の尺度である程度測れるようになったというか。
どちらかというと場を“回す”ことが得意だった。ただ、MAZで働くようになり、また同じタイミングで興味を持った日本料理にも積極的に触れるうち、そうした考えも変わっていった。本当にいいものをつくるには、きちんとした技術が必要だと。そう思うように。
●料理人として、ひとつ自分のなかに確たるものができたわけですね。その後は?
kadeauのシェフがデンマークへ誘ってくれたんです。それで、1年間kadeauで働くことに。
●憧れ続けた店で働けることになったのですね。どうでしたか?
あのときわからなかった料理の、味のベースや構成がわかるようになっていて、とにかく楽しかったですね。そのとき教わった料理は、ぜったいにこれからの人生で生きてくると思えるようなものばかりでした。
●空間のかっこよさや、動きの優雅さに衝撃を受けたという話もありましたね。
彼らは、オンオフの使い分けがすごくしっかりしていました。しかも、ちゃんと計算もできていて。仕事には真剣に取り組むけど、遊ぶときは遊ぶし、ゆるくてハッピーなところもあって、スタッフ同士もすごく仲がいいんです。まかないを食べて海に入って、ワイン飲んでから仕事したり。「こういうバランスの取り方もあるんだ」って、驚きました。1年間働いて一旦日本へ帰ってきましたが、その後、正式に従業員として雇ってもらえることになったんです。でも、コロナでビザの申請がうまくいかず、結局は日本に残ることに。
●それからは?
いくつかのレストランでアルバイトをしながら、同時に、自分の料理をつくってみたいと思いはじめ、間借りでポップアップをおこなうようになりました。そして、CENTRALが東京に出す新店・MAZ(※6)に誘われて、そのオープンを待ちながら過ごしていました。
●そのタイミングであらためて自分の料理と向き合ったとき、以前とは違う気づきはありましたか?
こういう料理をしたいという想像はありましたが、いざやってみると、テクニック的なこととか人の数の問題とか、できないことや大変なことももちろんあって。そうしたことが明確になりましたね。僕はどちらかというと場を見て全体を“回す”ことが得意だったので、そこまで高い技術を持っていなくても、ポップアップはそれなりに形になっていました。ただ、MAZで働くようになって、また同じ時期には日本料理をよく食べにいくようにもなって、そうした考えも変わっていきました。本当にいいものをつくるには、きちんとした技術が必要だと。そう思うように。
圧倒的な威厳のあるひと皿は、いろんなものが積み重なりあって、やっと、偶然に起きるようなものだと思う。自分の店をこれから30年間やっても、もしかしたらできないかもしれない。でも、目指さないと、一生辿り着けないと思うから。
●そう考えるようになった大きなきっかけはありますか?
日本料理に魅力を感じるようになってから、とくにお茶の世界に興味が湧いて、いろんな本も読みました。もてなす側が一切を説明せずとも、受け手が積極的に捉えにいくような、そういう世界に魅力を感じて。僕も、パッと食べて消費されるものはつくりたくないと思っています。僕らにも、お客さんにも、しっかり緊張感があって、互いへのリスペクトがあって、だからこそ生まれるいい時間ってあるじゃないですか。そういうものを目指していきたい。そうすると、やっぱり上っ面だけではいけない。自分の技術を見直していきたいと思うようになったんです。
●いまは、フランクでカジュアルな雰囲気のお店も多いですよね。
僕は、自分の好みとして、そうじゃないものがいいなと思っていて。これまで触れてきた音楽や陶芸なども、自分がかっこいいと思うようなものには、オーラみたいな存在感がありました。そうした、実物として圧倒できるものをつくらないといけないと思っています。そこに言葉がなくても、心惹かれるもの。ひと皿としての威厳があるもの。
●その技術が、料理人と食べ手の関係をも形づくると考えているわけですね。
いまは、コンセプトから入っていくような料理も多いと思います。それはそれで意味のある、とても素晴らしいことだとは思いますが、いま自分がやりたい、伝えたいのはそういったことではなくて。まず料理があって、そこから、「どうしてこういう料理ができたんだろう」と調べていく。そういう順序で料理と向き合うのが、僕自身も楽しいんです。やっぱり、自ら気づきにいこうとしないと感じられないものはあるし、そういう料理をやるなら、差がつくのは技術だったり、どれだけ物事を考えてつくっているかっていう深みだったりすると思います。
●まさにお茶の世界の、感じ捉える美意識のような。
そういうひと皿は、いろんなものが積み重なりあって、やっと、偶然に起きるようなものだと思います。僕が自分の店をこれから30年間やっても、もしかしたらできないかもしれない。でも、目指さないと、一生辿り着けないと思うから。僕はそうでありたいし、そのためにも、自分の店を早くやりたいと思っています。
Profile:脊戸 壮介 Sosuke Seto
デンマークの名店Kadeauで経験を積んだ後、紀尾井町MAZにて、オープン時から1年間スーシェフとして店に立つ。
現在は、都内の日本料理店に勤務しながら自身の店の開店準備中。
Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : mitsuharu yamamura(BOOKLUCK)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)
2024.8.16