堀 彩花 (24)
台湾留学中は、ただ生きていくことだけを考える時間だった。当時は実家だったし、学生で時間もあったし、いろんなことをやれる気になって。でも、生活がぜんぶ自分のものになったとき、やれることは本当に少なくて。「家事やるだけで精一杯」っていう毎日が、すごくしっくりきた。
CHAPTER
今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を
CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地はどちらですか?
東京の大田区です。近隣では戸越銀座商店街(※1)が有名ですが、実家のまわりにも、お豆腐屋さん、お肉屋さん、焼き鳥屋さんなど、小さな商店がたくさんありました。
※1:品川区戸越にある商店街。日用品店や青果店のほか、カジュアルなカフェやリサイクルショップがある活気ある通り。
●どんな子どもでしたか?
幼稚園児の頃は、わりと大人しくて引っ込み思案でした。でも小学校に入ってからは、クラブ長や代表委員、運動会の実行委員など、どんな役職にも手を挙げていました。なんとなく、「いい子でいよう」って思っていたかも。
●いい子であろうという気持ちは別にすると、そうした役職をこなすことが実際に得意だったり好きだったりもしたのでしょうか?
役職につきたいというより、せっかちだったのもあると思います(笑)「だれもやらないならやります!」みたいに、ほとんど反射的だったというか。中学時代も似たような感じで、役職という役職にはぜんぶ手を挙げていました。その頃になると年上のひとたちとの会議や別のクラスの子たちと集まる機会も増えて、そういうのも楽しかったですね。
●達成感ややりがいを覚えていた?
そういうのはあんまりなかったです。ただそっちの方が楽しかったというか。たとえば体育委員がわかりやすいですが、役職に就くと、大声出せるじゃないですか? とにかく大きな声を出したかったのかも(笑) 役職があれば、大声を出す理由ができるから。

空手部での3年間、私にとっては地獄のような日々だった。乗り越えたさきにあると思っていた“なにか”もまったくなく、ただ体育会系の悪を、自分のなかで無くなってしまうものの大きさを知った。
●高校はどんな風にして選びましたか?
中学校時代は塾に行くのが大好きでした。塾に通いすぎて、「おかえり」って言ってもらえるのがうれしすぎて。だから高校受験もするつもりだったけど、親から「彩花、この高校いいんじゃない?」って言われて、見に行ったら校舎の正面に大きな木があって、こういう木があるところいいな〜って、そのまま決めちゃったんです。「あんなに勉強してたのに」ってみんなから言われつつ、でも、高校受験のあの“戦い”って感じもイヤで、そこから離脱しちゃおうっていう気持ちもありました。
●高校時代で印象に残っていることは?
空手部での3年間。私にとっては地獄のような日々でした。上下関係が本当に厳しくて、先輩の前では絶対に笑っちゃいけないし、つねに先輩より腰を低くしていないといけない。部活中にずっと踵を上げていないといけない。休みたくても休めない。辞めちゃうひとも多かったです。
●堀さんはそれでも3年間やり続けたのですね。どうしてですか?
これを乗り越えたさきに“なにか”があるんじゃないかっていう期待、ですかね。
●実際やり遂げて、得られたこともありましたか?
なにもなかったんです。最後の大会を終えたとき、達成感を得られたり頑張ったと思えたりすると期待していたのですが、まったくなかった。ただ体育会系の悪を知ったというか。それで犠牲になるものや、自分のなかで無くなってしまうものの大きさを。当時は夢中だったし真剣だったからわからなかったけど、思い返しても「あってよかった」と肯定はできません。そうしてなにもなくなって、焦ってしまって。このまま大学へ進んで、就職して、流れるように死んでいくのかな……とか。だからその頃は、マルチに勧誘されたりもしました。弱りすぎていたんだと思います。
●どうやって立て直したのですか?
不安定な時期、怒ってくれた先生がいたんです。「お前、なんかやばいぞ」って。すごく大好きな先生だったから、ハッとして。でもしばらくは立ち直れず、また別の大好きな中学の先生のところにも会いに行ったんです。そこで相談したとき、「なにをやりたいの?」と聞かれて、「カフェやりたい」って答えたんです。それで、逗子にあるandsaturday coffee&cakes(※2)を紹介されました。とりあえず会いに行ってきな、みたいな感じで。
※2:「土曜日だけの珈琲店」としての6年半を経て、海街の逗子にオープンしたスペシャリティコーヒーとケーキのお店。

大学生になってからは、とくにカウンターのあるお店に通うようになった。みなさんがお店をはじめた理由やきっかけが気になって、行く先々でお話を聞くようになった。
●カフェをやりたいという気持ちは、どこから?
その悶々としていた時期に、飲食店にたくさん通っていたんです。それこそ戸越銀座も盛り上がっていた時期で、新しくできたホットケーキ屋さんで食べたホットケーキが救いだったりとか。そういうのもあって、「私もこれをやりたい」って考えるように。紹介してもらったandsaturday coffee&cakesにもそれからよく通うようになって、店主のおふたりをはじめ、そこにいるみなさんには本当によくしていただきました。
●その頃の拠り所がカフェだったのですね。
大学生になってからは、とくにカウンターのあるお店に通うようになりました。そして、みなさんがお店をはじめた理由やきっかけが気になって、行く先々でお話を聞くようになって。コロナで行けなくなってからは、今度は雑誌のそうした企画を読み漁るようになりました。そして大学2年生のとき、友達と3人でポップアップのカフェをやることになって。
●実際にやってみて、どうでしたか?
飲食店のひとたちに対するリスペクトはさらに増しました。本当にあのひとたちは毎日すごいことをしているんだ。本当にありがとうございます!みたいな思いが込み上げて。でも、イベントについては、「なんか違うかも」という感触もあって。というのも、予約枠の100名を埋めてくれたのが、ほとんど身内だったんです。もちろん、お世話になったひとや友人たちがおのおのに楽しんでくれている景色には胸がいっぱいになったし、忘れられないくらいうれしかった。でも同時に、もっと開けた場所を作りたいとも思ったんです。「その場所に行きたい」ってだれもが純粋に思ってくれるような。とはいえ、別にパティシエやバリスタになりたいわけでもなかったので、一回離れて、別の立ち位置から眺めてみようって思って。せっかくならもっと“原点”を見てみたい、と農家さんに通いはじめました。

その頃のマインドは、「農業にはこういう問題があって……」とか「どうしてみんなに知られてないんだろう……」とか、結構ネガティブだった。でもその本を読んでわかったのは、起点はハッピーじゃないとダメだってこと。
●今度は農家に。どういういきさつですか?
当時アルバイトしていたコーヒー屋さんの店主が、コロナで思うように動けずうずうずしていた私を見て、「どうやら長野の畑で人手が足りてないらしい」って、ある農家さんを紹介してくれて。それですぐに行ってみることに。
●その行動力と瞬発力、小中高とずっと続いてきたのですね。とりあえず手を挙げていた頃のまま。
たしかにそうかも(笑) そこはおばちゃんたちが自分たちのためにやっている田んぼでした。初めて行ったときに圧倒されたのは、雪崩かなにかの影響で溢れそうな川を堰き止めるため、70歳のそのおばあちゃんたちがチェンソーで木を切り倒しているのを見たとき。「生きるだけで精一杯じゃん」って。カフェのこともあったし、コロナで身動きが取れずウズウズしていたけれど、思い悩んでる暇はないって。それで、そのひとたちの近くにいたいと思って、たまたま居合わせた自然栽培農家の耕芸くく(※3)さんに、「お手伝いさせてください」と頼み込みました。それからは定期的にバスで通うように。
※3:長野県の中央アルプスと南アルプスに挟まれた伊那谷にある農場。無肥料、無施肥、農薬不使用ですべての作物を栽培、 出荷している。
●それまで見てきたのが食の世界の表側とするなら、そこはいわば裏側というか。その世界を目の当たりにして、なにを思いましたか?
仕事を手伝うにつれわかってきたのは、なにも知らない私を畑に迎え入れてくれたこと自体、本当にとんでもないことだということ。1年後には私の部屋まで用意してくれて、まわりのいろんな大人にも会わせてくれて。畑仕事をさしおいて、信じられないくらい、ただの大学生である私に時間を使ってくださった。それには感謝してもしきれなくて、苦しくて、だからなにか恩返しがしたいと思って、東京にいる私にできることってなんだろうと考えるように。そんなあるとき、自然栽培についての授業を受けられる1日限定のイベントがありました。私は、「そこで学んだことを農家さんに伝えよう!」と思って。でもその前日に、登壇者であるミコト屋(※4)店主・鉄平さんの書籍を読んで、「わかった気になってただけだ……」って、ハッとしたんです。
※4:「旅する八百屋」として、全国の生産者を訪ね、自然栽培の野菜を宅配やイベントで販売。2021年に地元横浜市青葉区に拠点となる「Micotoya House」をオープンし、野菜だけでなく、ロス野菜を使ったアイスクリームやランチなども提供する。
●というと?
その頃のマインドって、「農業にはこういう問題があって……」とか「どうしてみんなに知られてないんだろう……」とか、結構ネガティブだったんです。でもその本を読んでわかったのは、起点はハッピーじゃないとダメだってこと。実際ミコト屋も、みんながそうやってハッピーに集まった結果が“アイスクリーム”だった。それがすごいなと思って、大感動。私はミコト屋で勉強してから、そのあと農家さんに対してできることをしようと思って、代表の鉄平さんに手紙を書いて、そうしてインターンさせてもらえることに。同時期に、長崎県雲仙のタネト(※5)のインターンにも行きました。
※5:2019年秋に長崎県雲仙市千々石町に開店したオーガニック直売所。在来種野菜を軸に、全国の農家、八百屋、レストラン、料理人、そしてその土地に暮らす人たちを繋ぐことで、その活動の幅は全国に及ぶ。

台湾留学中は、ただ生きていくことだけを考える時間だった。当時は実家だったし、学生で時間もあったし、いろんなことをやれる気になって。でも、生活がぜんぶ自分のものになったとき、やれることは本当に少なくて。「家事やるだけで精一杯」っていう毎日が、すごくしっくりきた。
●ふつう大学時代なんて、与えてもらって、吸収するだけでも精一杯のはずなのに、返したいという気持ちを原動力に行動まで起こせるのは、本当にすごいことですね。
いや、そんなの返せるわけないんです。でも私はせっかちだから、「早く返したい」って焦ってしまった。話は前後しますが、農家さんへ通い出す前、『POPEYE』の台湾特集号を読んで、「ここで暮らしたい!」と思うようになりました。でもコロナになって、当時計画していた留学は延期することに。そのまま就活してもよかったけど、でも台湾へ行きたい気持ちをそのまま大事にしたくて。しばらく経った大学3年の6月から、半年間休学して、晴れて台湾へ留学をすることになりました。
●どんなふうに過ごした半年間でしたか?
それこそ恩返ししたいとか、正しくありたいみたいな気持ちが強かった時期なので、台湾では、それが1回外れたというか。ただ生きていくことだけを考える時間で、それが本当に楽しくて。当時は実家だったし、学生で時間もあったし、だからいろんなことをやれる気になっちゃうんですよね。でも、生活がぜんぶ自分のものになったとき、やれることって本当に少なくて。「家事やるだけで精一杯」っていう毎日が、すごくしっくりきたんです。
●“生きること”の純粋な実践、のような。一度そこで気持ちもリセットされたことで、改めて、なにをやりたいかも定まってきた?
また話は戻りますが、タネトでインターンをしていた時期、長く自然栽培をしている岩崎さんという農家の畑を見に行ったとき、ぶん殴られたような気持ちになって。「俺らはこれくらい本気だけど、お前、本当にこれやれる?」って、突きつけられたような気がした。実際、私は料理人になりたいわけでも、直売所をやりたいわけでも、農家になりたいわけでもなかったから。
●では、当時やりたいと思っていたことは?
インターン中に、文章を書いたり、雑誌について熱く語ったりしていた私を見て、タネトの店主・奥津さんが、「飲食も八百屋も向いてねぇよ。編集者になりたいんじゃないの?」って、全部中途半端だった私の背中を押してくれたんです。「誰かのため」なんて言って、自分の本心と向き合うことから逃げていると、見抜かれた気がした。
●飲食店の店主の話を聞いてまわったり、雑誌で読み漁ったりしていたことも、編集者になりたい気持ちの発端にありそうですね。
そうですね。インターンを終えてミコト屋に戻ったあとも、「どうしてミコト屋に辿り着いたのか」って、一緒に働いていたみなさんに聞いてまわっていました。いつか記事にするつもりで。ただ、台湾留学の終わり頃、その同僚のひとりが別の場所で受けた取材記事を読んだとき、「私にはこれ書けないし、あのとき聞けてなかった……」と感じて。私もこんな文章を書きたいって、そのライターさんに連絡を取って、お話を聞くことに。それからは、ときどき取材に連れて行ってもらったりするようになりました。

だれかの話を聴き、その選択や気持ちに迫ろうとしたとき、自分が歩んできた人生をもってしかできない質問がある。 “堀彩花”として進んでいった人生のなかで、きっと、ようやく書ける文章がある。だから、一度会社というものに入ってみようと決めた。
●では、卒業後にそのまま編集やライターの仕事を目指して?
いえ、そういう選択肢もあったのですが、取材について行ったり文章を書いたりするようになったとき、自分はまだまだだって思う瞬間がとにかくたくさんありました。だれかの話を聴き、その選択や気持ちに迫ろうとしたとき、自分が歩んできた人生をもってしかできない質問がある。 “堀彩花”として進んでいった人生のなかで、きっと、ようやくできる取材や書ける文章がある。だから、一度会社というものに入ってみようと決めたんです。
●“自分の歩む人生”に正直になったそのとき、思い浮かんだことは?
食の世界で、私もいちど作り手になろうと思いました。私が話を聴きたいのも、そうしたひとたちだったから。それで、和菓子の製造メーカーに新卒入社しました。工場は大きいけれど、手仕事や職人の技術を大切にしている会社です。配属されたのは販売の現場だったので、いまは、デパートの地下に立って働いていますが、来年には製造の方にまわることができそうです。
●先のことはさておくとすると、いま現在は、どんなことにやりがいや楽しさを覚えていますか?
地下の食品売り場は、それこそ台湾で見た商店街みたいに、ものすごく活気があって。いろんなひとが大きな声を出して、そこに一員として参加できていることに幸せを感じています。それに、「お肉美味しそう〜!」とか「魚、きれい〜!」とか、日々ときめいていて、近い未来に製造へ行けるかもしれないけれど、でもどうなってもいいと思えるくらい。また、その日限り、その瞬間限りのひとたちが行き交って、私を私と認識されていない感じも心地いいんです。

自分の役割にしても、“決めていくもの”だと思っていたけど、むしろ“決まっていくもの”なんだって、いまは感じている。だから、自分の体内に収まるものを誠実に積み重ねていきたい。編集者になるとか、お店を持つとか、いまは等身大からはみ出ていると感じるから、積み重ねていった先に「あったらラッキー」くらいの気持ちで。
●大学生の頃に友人と催したカフェイベントでの「だれもが身内だった」風景とは、真逆というわけですね。
たとえば休憩室で、だれもが、好きにつくってきたお弁当を食べたり、お気に入りのお菓子を食べたりしている、そういう光景が私はすごく好きです。だれかに認められたくてやっているわけじゃないじゃなくて、純粋に、「おやつの時間にルマンドが食べたい」と思って持ってきてるわけじゃないですか。そういうのが好きなんです。
●小中時代は、目立ちたいとは言わないまでも、どちらかというと輪の中心にいることを自らで選んでいたふしもあるのではないかと思います。でもいまは、どこかその好ましい立ち位置も変わってきているようです。
なにかをやりたいという気持ちさえ、上から打ち付けたり、頑張って勝ち取ったりしないといけないと思っていました。それこそ空手部の影響もあって。でも、ある福祉の展示を見て知ったことがあって、それは、素直になにかをやりたいと思える状態に一番大切なのは、心理的安全だということ。「え、安心していいの……?」って、膝から崩れ落ちるほど衝撃を受けました。でもいまなら、自分自身が心地よい、だから元気でいられて、そしてやりたいと思える。そういう積み重ね方があるってわかる。自分の役割にしても、“決めていくもの”だと思っていたけど、むしろ“決まっていくもの”なんだって、いまは感じています。だから、自分の体内に収まるものを誠実に積み重ねていきたい。編集者になるとか、お店を持つとか、いまは等身大からはみ出ていると感じるから、積み重ねていった先に「あったらラッキー」くらいの気持ちで。
●台湾での生活で得た価値観とも通じている気がします。
朝、洗濯をまわしながらお味噌汁つくって、食べ終わった頃に洗濯が終わっていて、それを干す。そういうのがうまくいったとき、すごく安心します。もちろんできないときも多くて、チンした冷凍ご飯をそのまま持って家を出たりもする。でも、ままならない生活を経験することすら大事だなって思えます。だって、私が今後力になりたいと思うのは、ままならない生活をしているひとたち。だから、いまはそういう自分も受け入れたいんです。
Profile:堀 彩花 Sayaka Hori
2000年生まれ。
和菓子の会社で働きながら、食に携わる人を中心に、取材・執筆を行う。フリーペーパー『口果報』にて、web連載企画「あの人のスイートホーム」を担当。飲食を真ん中に、”その人なりの心地よさ”を探る。
Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : Gaku Sato
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)
2025.5.15