CHAPTER vol.45【EAT】

近藤 祐介 (29)

スヌーザー 代表

自分が1万なくなっても自分が我慢すりゃ終わるけど、その1万をその日必要なひとがおるかもしれへんし。おとんとおかんはずっと銀行員やったんですけど、「金は天下の回りもんやから、持っててもしゃあない」って、ずっと言われてきたんで。「ひとのためにお金を使いなさい」って。だから、惜しまず使いました。

CHAPTER

今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を

CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地はどちらですか?
生まれは兵庫県の尼崎で、育ちは西宮。ほんまどうしようもないところで生まれました(笑)

●子どもの頃はどんなことに夢中でしたか?
ずっとサッカーやってましたね。ポジションはキーパーです。

●キーパーのポジションは、自分から進んで選びましたか? もしくは、素質があると見込まれて抜擢された?
ひとがいなかったんですよ。でもやってみたら面白かった。負けないんですよ、自分が点を取られなければ。そういうシンプルな考えが好きやったし、性格にも合ってたと思いますね。

●ずっとそうしたきっぱりした性格だった?
性格的には、めっちゃ寂しがり屋でしたよ。小学校4年くらいまで。家好きやし、おかん好きやし、帰りたぁてしゃーないんですよ。学校終わったらおかん迎えにおかんの職場行く、みたいな。

●お母さんはどんなひとでしたか?
はっきりしてるひとですね。言いたいこと言うし、むっちゃ怒られましたし。でも、めっちゃ愛のあるひとやなって、いま考えると思います。

●小学4年以降は、どうして寂しくなくなったのでしょう?
1個上に兄貴がいたんですよ。学校行ったら兄貴いるから寂しくないわって思った記憶はありますね。知ってるひとがいないとイヤだったんですよ(笑) あとは、はっきり喋らんかったらぜんぶうまく行かへんっていうのが、なんとなくわかったんですよね。それこそキーパーなら、指示通されへんし。


キーパーは、自分がめっちゃ上手くなっていけば、点が取られなくなる。自分だけを鍛えればいいんですよ、一旦は。あとは自分が守りたいように指示出してみんなを動かせば、勝てるんです。


●それからは社交的になって、よりはっきりものを言うようになったと。
そうですね。言っとかんと、伝わってないんで。伝わってないってことは言ってないのと同じ。だから、嫌われてもいいやと思って、なんでも言うようになりました。嫌われたら、俺も嫌いやし、みたいな。ダメなんですけど(笑)

●そうした人格形成には、やはりサッカーも大きくかかわってきたのでしょうね。ほかのポジションならより連携が大事なのに対して、キーパーはどちらかというと“個”の力が必要とされるイメージです。
めちゃくちゃ“個”ですね。それが面白かった。要は、自分がめっちゃ上手くなっていけば、点が取られなくなる。自分だけを鍛えればいいんですよ、一旦は。あとは自分が守りたいように指示出してみんなを動かせば、勝てるんです。

●指示を出して動かす、というようなことも得意だった?
エラそうにしてたかったんで(笑) もちろんそのぶんやってないといけないんですけど。信用されてないと、指示された側から、「やってないやん」ってなるし。あと、キーパーなら、負けても俺のせいになる。それもラクでしたね。

●ひとのせいになる方がラクじゃないですか?
だれかのせいにする方が嫌ですね。俺のせいなら、ごめんな言うたら終わるし。ごめんな言えへんやつもいるけど、でも俺は言えるし。


社長になりたかったんですよ。理由とかは別になくて、お金を持ってるイメージだったんでしょうね。めちゃくちゃ典型的な厨二病みたいなやつやったんで。


●俯瞰で全体を見たり、自分が最終的な責任をとるというようなことは、いまスヌーザー(※1)でやっているであろうマネジメントの仕事にも、まさにつながってくると思います。そうした得意を仕事にしようとは、その頃から考えていましたか?
まったくないですね。その頃はサッカー選手になりたくて、でも高校で辞めたんですよ。なれへんって気づいて。頭も悪かったんで大学も行かれへんって思って、服好きやったんで、専門学校行くんですよ。

※1:兵庫県、但馬地方に店を構える「TANIGAKI」と「OFF」がプロデュース・メニュー監修を行う。“ローカルコラボレーション”をテーマに、静岡の食材や地域の生産者さんにフォーカスしたカジュアルな居酒屋スタイルの店舗。

●主になにを学ぼうと?
スタイリスト科に入りました。もともとはビジネスがしたかったんで、ビジネス科も考えたんですけど、ビジネス学んでもそもそものスタイリングがダサかったらビジネスならんやんって思って。

●では、ゆくゆくは商売をやりたかった?
社長になりたかったんですよ。理由とかは別になくて、お金を持ってるイメージだったんでしょうね。めちゃくちゃ典型的な厨二病みたいなやつやったんで。

●服飾専門学校での学びというと、いわゆるセンスや感性を磨く、みたいなところもあると思います。通ううちに、そうした部分を培えている実感もありましたか?
いや、ぜんぜんですよ。そのときいいなと思ったものをやってただけで、いま見たら「ゴミみたいなもんつくってたな」って、俺の2年間なんやったんやろうって思うときありますもん。でも、知らんことを知る楽しみみたいなのはすごくありましたね。あとは、同じ科に通うひとたちとも、かなり結束感あったと思います。年齢はわりとバラバラで、27、8歳のひととかもいて。そういうひといじるんもめちゃくちゃ楽しくて(笑) 年上・年下とか関係ないんで。

●サッカーをやっていた小中時代からそうでしたか?
グラウンドは同じなんで。先輩だろうが、なにやってんねんっていうときは「なにやってんねん」って言うし。体育会系で、縦は縦なんで、だからやることはちゃんとやってましたよ。ほんまにガチガチでしたけど、それは苦じゃなかったですね。そういうもんやと思ってた。でも、試合に出たら“言える”ので、「試合に出て言うたろう」思ってました。


最後に受けた会社は、落ちてもいいわって思って受けたんです。その代わり、嘘つかんといてみようって。そしたら社長面接まで漕ぎ着けたんです。社長に「なにになりたいんや」って聞かれて、「社長になりたい」って答えました。


●「社長になりたい」という願望も、「だれかの上に立ちたい」というようなことではなかったのでしょうね。専門学校を卒業して、就職したのですか?
社長になろう思ってるから、なる方法を考えるんですけど、就活のとき、正直者であることがすべてであることに気づいてしまって。面接は、アパレル企業を3社だけ受けて、そのうちフリークス ストア(※2)にだけ受かったんです。A社はちょっと入りたくて、B社はノリで、そしてフリークスは、最後に受けとくかって感じで。最初のA社は偽りで行って、まぁ綺麗に落ちるんですよ。B社はノリなので、みんなが20分くらいのところを俺5分くらいで面接終わって……。最後のフリークスは、「落ちてもいいわ」って思って受けたんです。その代わり、嘘つかんといてみようって。素直に話してみて落ちたら、それが事実やしって。そしたら社長面接まで漕ぎ着けたんです。社長に「なにになりたいんや」って聞かれて、「社長になりたい」って答えました。「そんなんやったら、いつ辞めんの?」「3年で辞めます」「どうやって社長になるんや?」「社長の横に置いてくれたら、俺たぶん社長になれます」「俺の隣にきたら、お前社長になれるんやな?」「社長が俺を隣に“置ける”なら」って(笑) そしたら、その場で「お前、採用する」って言われて。

※2:1986年に創業。株式会社デイトナ・インターナショナルが展開するセレクトショップ。アメリカンカジュアルを基調とした、衣料品や雑貨、アクセサリーなどを取り扱う。

●それから実際に、社長のそばで働くことに?
結局そんなことはなくて、店舗で3年勤めました。でも、言ったら叶うし、嘘ついたらあかんしっていうことは、そのときにわかりました。

●働いているあいだも、それを心に留めていた?
そうですね。そして、言われたことをやれば、結局叶う。社会ってそういうもんやってわかりました。大阪で2店舗勤めた入社半年経たんくらいのとき、マネージャーに「なにになりたい?」って聞かれて、「店長やらしてくれ」言うたんです。入社数ヶ月のやつにそれは無理やって言われて。でも「無理」って言われたらやる気なくなるから、なにをしたら店長になれるか教えてくれって。そしたら、1週間で200万売ったら考えてやるって言われて、ああそうですかって、俺1週間で200万売ったんですよ。やらんと負けるし、啖呵切ったらやらんとダサいから。

●それで店長に?
マネージャーは売る思うてへん数字言うてもうてるから、焦って。店長は無理やけど、もうすぐ静岡に路面店ができるから、そこのメンズのトップとして据え置く、それでどうかと。それで静岡に行きました。そのあとそこの店長見てて、めちゃくちゃ面倒くさそうやな思って、店長なるのはやめたんですけど(笑)


学がない人間は、心を潰すか、体を壊すか、その2択でしか金は稼げないんですよ。実際給料の高い仕事を探してみると、コールセンターのクレーム処理か、バナナの荷揚げかだった。俺は心強い方やから心潰しにいこう思って。


●そのあとに目指したことは?
自分で洋服屋やろうって思って、会社を辞めて東京行きました。静岡よりも時給がよかったので、運転資金貯めに8ヶ月間だけ。コールセンターでバイトしました。

●きっぱりと切り替えて、お金を貯めるためだけに?
学がない人間は、心を潰すか、体を壊すか、その2択でしか金は稼げないんですよ。そういう仕事しか、給料って高くない。実際給料の高い仕事を探してみると、コールセンターのクレーム処理か、バナナの荷揚げかだった。俺は心強い方やから心潰しにいこう思って。でも、勉強にはなったんですよ。どう話すか、どう聴くかで、ひとの出方ってまるで変わるっていうのもやし。怒ってるひとは15分以上怒れないっていうのもそうやし。ひとって、15分怒ると、なにに怒ってたかわからなくなるんですよ。15分でぜんぶ言い切るから、怒れなくなる。そこからは論点の違うことに怒りはじめたりして、そうなるともうこっちの勝ちで。相手も「もうええわ」ってなる。

●選んだ道のなかで、しっかり自分に必要なことを得たり、つぎの道を拓くきっかけにつなげたりしてきたのですね。
ほんま、ラッキーパンチ続いてるなって思いますよ。でも、お金貯めて、それから静岡に店開けて、すぐコロナになって。2020年2月1日オープンやったんですけど、2ヶ月経たずで車ひとつ走ってない街になりました。


自分が1万なくなっても自分が我慢すりゃ終わるけど、その1万をその日必要なひとがおるかもしれへんし。おとんとおかんはずっと銀行員やったんですけど、「金は天下の回りもんやから、持っててもしゃあない」って、ずっと言われてきたんで。「ひとのためにお金を使いなさい」って。だから、惜しまず使いました。


●さすがにそのときはラッキーパンチとはいかなかった?
終わったなぁ思いました。飲食と違って補助金もないんですよ。でも、やる言うたらやらな気が済まん性分なので、とりあえず一生やったろ思うて、一生やったんですよ。そしたら、昔からの仕事のよしみでお客さん来てくれたり、オンラインで買ってくれたり。ブランドさんがイベント打たせてくれたり。で、赤字は1回も出なかったんです。

●同時に、それまで願っていた「ぜんぶ自分でやる」ということが叶ったわけですが、そこについてはどんな気持ちでしたか?
こんなもんか思いましたね。でも、だれにもなんも言われないのは嬉しかったです。ぜんぶ自分のせいなのも。それこそそのときの状況も、コロナ悪ないし、街悪ないし、だれも悪ないんですよね。

●とはいえ、持ち堪えるのはかなり過酷だったことと思います。
「みんなしんどいし」って思うようになったんですよ。周りの店も絶対しんどいなって。それで、毎日飲みに行ったんです。でもそしたら、翌年還ってくるんですよ。2年目は、ずっとひとが来てくれてました。

●そうした回り回ってのことを想定していたわけでもなく?
まったくないですね。ただ、みんな絶対しんどいから。自分が1万なくなっても自分が我慢すりゃ終わるけど、その1万をその日必要なひとがおるかもしれへんし。おとんとおかんはずっと銀行員やったんですけど、「金は天下の回りもんやから、持っててもしゃあない、使いなさい」って、ずっと言われてきたんで。「ひとのためにお金を使いなさい」って。だから、おもろかったり好きやったりするひとに、惜しまず使いました。


なんであのとき払われへんかったんやろうって、残ってるんですよ、その500円が。困ってるひとがそこにいたのに、俺は見て見ぬふりしたんです。おかんにも、「ダサいな」って言われました。「それ助けたらへんのはかっこ悪いで」って。


●ご両親からのとても素敵な教えですね。
いまだにずっと心に残ってる、ショックなことがあるんですよ。高校生のとき、王将でひとりで飯食ってて、隣にいたサラリーマンが餃子2人前注文して、でも出されたときにお金持ってないことに気づいたみたいで、そこから店員と押し問答はじまって。「キャンセルさせてくれへんか」「もう焼いちゃったんでキャンセルはできない」「でもお金ない」って。俺、500円持ってたから出せばよかったんですけど、なんでかそのとき尻込みしちゃったんですよ。結局、あとでお金持ってきてくれればええからとりあえず食べてくださいってなって終わるんですけど、家帰っておかんにその話して、おかんならどうしてた?って聞いたら、「払うやろ」って。めっちゃ小っちゃいことなんですけど、いまだに、なんであのとき払われへんかったんやろうって、残ってるんですよ、その500円が。困ってるひとがそこにいたのに、俺は見て見ぬふりしたんです。おかんにも、「ダサいな」って言われました。「それ助けたらへんのはかっこ悪いで」って。だから、困ってるひといたら払ったろうって思うし、ひとに金払うとか、ぜんぜん気にならないですね。

●仕事においても、それと同じ感覚があると。
ひと大事にせんかったら終わりなんで。お金よりもひとですね。

●コロナの影響で窮地に立って、それでも自ら身銭をきる。自分で店をやったからこそ、そうした実感を改めて得たわけですね。いまは、一転、飲食の仕事をしていますね。洋服屋をやっていたときと、感覚は違いますか?
俺らがやってるのは、あくまで空間提供だと思います。別にこっちが介入せんでも、お客さんはお酒飲んで会話してすごい楽しそうにしてるし、その会話に価値がある。でも、ハートランドになんの価値もなくても、そこに出したら“その一部”になってるんですよ。お客さんが話してるなかに、僕らがちょっとひと言パスするだけで、場がバーっと盛り上がったりするのも面白いし。

●お金よりひと、という考えは通じていますか?
そうですね。だれかとタッグを組まないと繁栄ってできないな、とはずっと思ってて。服屋も、あくまでブランドがあって、俺らはディーラーなんですよ。だれかがいるから自分らがいる。それに、自分には“武器”がないんですよ。「お前なにできんの?」って言われて、「これできます!」っていう職業っていうものがないなぁ、ってずっと思ってます。服売れますって言っても、服なんかだれでも売れるやんって。でもいまは、「ひとがやりたいことを形にすることができる」とは言えるんですよ。


結局、ゴールを守ってても勝てないんですよ。負けないけど、勝てない。勝つためには攻め込んでくれるひとがいないと。


●社長になりたい。自分でぜんぶ決めたい。ひとりで采配したい。そうしたことを願ってやってきたいま、それでも大切なのは“ひと”だと心底考えている。重みがありますね。
結局、ゴールを守ってても勝てないんですよ。負けないけど、勝てない。勝つためには攻め込んでくれるひとがいないと。シェフがいないと料理はつくれないし、サービスしてくれるひとがいないと物は出ないので。

●スヌーザーというチームの代表という仕事や立場は、自分に合っていると感じますか?
合ってたと思いますね。どんだけ物食ったって自分が責任取るだけやし、売上ないなら自分が金借りてくるだけやし。たとえビルにひと来んくても、だれも悪くない。自分らが弱いだけなんで。ここにいるみんな個々で本気でやってるから、ほな俺らもやるだけやんって。

●これから目指す、店や自分の姿はありますか?
みんなのやりたいことをできればいいなぁって、ずっと思ってます。去る者は追わないけど、勝手に去られたくはないんですよ。「スヌーザーにいてよかった」って思ってもらえたらいいなぁって。みんなのやりたいことは応援はするけど、「自分はもう外でやっていけるけど、まだここにいたい。ここで学びたい」って思わせるのが、僕の仕事で。それでも、いつかそいつが店出したら、スヌーザーにできることがあれば手伝いたいし、農家やったら、そいつの野菜を卸して使いたいし。それが多分、最後に残る価値なんですよ。スヌーザーがどれだけ“強い”かっていうのは、あとからわかると思う。



Profile: 近藤 祐介 Yusuke Kondo

1995年 兵庫県生まれ
高校卒業後、アパレル業界に興味をもち専門学校に進学し卒業後デイトナインターナショナルに就職。
その後、2020年2月にセレクトショップ「STAND LOBBY」をオープン。
2024年12月にTANIGAKI.OFF監修の元「スヌーザー」をオープンさせ現在に至る。

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Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : mitsuharu yamamura(BOOKLUCK)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)


2025.7.24