山田 柊 (28)
お店で誰かが水をこぼしたら、誰だってサッと拭いてあげる。そのくらいの距離感で、パレスチナと繋がっていたい。支援活動も、「心からやりたいわけじゃないけど、やるしかないから、やる」っていう空気感のほうが健全な気がする。
CHAPTER
今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を
CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●生まれはどちらですか?
東京都の昭島市。ベッドタウンですね。父はエンジニア、母は専業主婦。派手な暮らしではありませんでしたが、何不自由のない、ありがたい環境で育ててもらったと思います。
●どんな少年時代を過ごしていたんですか?
運動は全くせず、ゲームばかりしている肥満児でした(笑)中学まではかなり内向的で、ずっと斜に構えていたんだと思います。周りと話が合わないと感じていて、授業の内容も一度聞けばわかってしまう。当てつけのように、ずっと寝ているような、そんな、しょうもない子どもでした。
●勉強はできた。でも、それを周りと比べたときにフラストレーションになっていたりした?
多分、与えられた立場を超えて、先に行きたかったんでしょうね。でも、学校という場所では全員が同じスピードを強要される。そこに対して、歯がゆさを感じていたのかもしれません。周りに対して、どこか「自分は違うな」という感覚はありましたね。

ようやく自分でいられる場所を見つけた。指標がいらなくなるくらい、楽しかった。
●中学までの違和感を持ったまま高校生になってみて、そこでの景色はどう変わりましたか?
ようやく、ちゃんと自分でいられる場所を見つけた感覚でした。中学までの楽しさとは、別。自分とコミュニケーションや調和が合う友達がいっぱいできた。逆に、成績は学年でドベに近い状態まで落ちたんですけど、不思議と気になりませんでした。中学での成績は「演じている自分」を示すための記号でしかなかったから。もう演じる必要がなくなった僕には、そんな指標はいらなくなったんです。
●演じることをやめて、自分の素でいられるようになった。そこでは何に熱中していたのでしょう。
熱中したことのひとつは、学校行事の「劇」ですね。3年生が1年かけて劇をつくる伝統があって、僕は演出担当の長をやりました。今思えば、中間管理職のような役割でしたね。そこで大きな転機があって。僕はどうしてもオリジナルの脚本でやりたかった。でも、結局は既成の脚本をやることになった。その瞬間に、モチベーションがガクンと落ちてしまったんです。
●やりたいことに対して、自分でスタートするほうが性格に合っているということ?
そうですね。演者たちはその劇のためにこの学校に入ったというくらい熱量がある。でも、やりたい方向性が違うなかで、あちこちを調整するタスクだけが降り掛かってくる。それがすごくしんどかったですね。いままでは部活や行事という「既存の枠内」で考えていたけれど、外圧ゼロの状況から自分で選んでいかないと、この先もしんどいことになるぞ、と。
●その時に「自分で人生を選択する」重要性に気づいたと。それは、大学生の自分にどう影響した?
やりたいことを貫くなら、自分でスタートするしかないという教訓を、フライングして高校時代に味わってしまった。だから大学に入ったあとも、集団のノリには馴染めませんでした。大学では社会学部に入り、最初のオリエンテーションで疑似的なクラスをつくって遊ぶような空気に触れたとき、本当にしんどかった。また中学の頃の「茶番感」と、高校で味わった高い熱量とのギャップに、静かに絶望していました。

クナーファを現地で食べて、自分の活動としてやってみたかった。すごく美味しくて感動して、というより、追い詰められて。
●絶望した大学生活をどうやり抜いた?
退行して、演じる部分は出てきたんですけど、楽しい部分ももちろんあって。「アイセック」という名前の世界規模の学生NGOに入りました。社会課題に関心があった高校生だったので、ニュースで難民がボートに乗ってヨーロッパへ行くような映像を見てから、ずっとアラブのことが気になっていて。何かしら仕事をするなら、誰かのためになることがいい。それも、確実に「悪いことではない」と言い切れることがしたいと思いました。
●なるほど。実際にその世界に入ってみて、どうでした?
結局、そこでもまた組織の壁にぶつかってしまった。外様の人間が、支援という名目で何かをすることの正当性はどこにあるのか。正直、そうした問いを深める場所ではないと感じてしまった。大学に入るまではNGOへの就職を考えていたんですけど、自分のやりたい方向性とは違うと感じて、2年の終わりに辞めました。
●辞めた後について、教えてください。
内戦が行われていた場所の近くに行ってみたかったので、まずはアラブへ。休学して1年、何かを成し遂げなければならない。でも、政府の援助金審査には落ちてしまい、すぐに帰国せざるを得ない状況に追い込まれて。そこで出会ったのが、1000年以上の歴史がある クナーファというお菓子でした。正直、食べて感動したというより、アラブと自分なりに関わりを持つならクナーファはありかもしれない、と始めてみた。これまでの経緯もあって、一人で活動しようと決めてました。
●活動するうえで、支援という方法を選ばず、菓子を売るという「商売」を選んだ理由は?
「正しいことをしている自分」が、どうしても飲み込めなくて。でも、全く関わらないのも違う。僕はそのどちらでもない、「周辺」にいながらその正しさについて考えたかった。あくまで生活の範囲内にありながら、それでいて冷めたところもあるような距離感というか。そこなら、自分が感じていた正当性への疑念を、抱えたまま歩ける気がしたんです。

知るというより「認識する」くらいがいい。お店で誰かが水をこぼしたら拭いてあげるとか、みんなやってるじゃないですか。そういう話だと思うんですよ。
●少しクナーファについて教えてください。名前も見た目も印象に残りやすいお菓子ですよね。なぜ他に関わる人が増えないんでしょうか?
単純に、つくるのがめちゃくちゃ面倒くさいんですよ(笑) 構造としては小麦粉の生地とチーズを焼いてシロップをかけるんですけど、その生地がすごく特殊で。輸入食材だから原価も高いし、何より焼きたてじゃないとおいしくない。オペレーションが難しいから、片手間でやるにはハードルが高い。でも、それゆえにやってる人がいないし、逆に現地ではすごくメジャー。そこは、すごくやりがいがあるなと思っています。
●その面倒の多さが、結果的にうまくはたらき、独自性になっているんですね。
3年前には、パレスチナへ修行にも行きました。修行先にはクナーファ屋さんがたくさんあったんです。日本ではずっと一人で焼いていたので、まずは同業者がたくさんいることが嬉しくて。現地ではクナーファを焼くアジア人なんかほとんど見ないだろうから、みんなすごく喜んでくれる。驚いたのは、彼らの家族意識の強さでした。職人も掃除係も、昼になれば営業中の客席で大きなピザをみんなで囲んで食べる。そこに僕も当たり前に入れてくれる。その歓迎の仕方が、すごく心地よかった。
●パレスチナを知るきっかけになってほしい。そんな思いも、どこかに?
うーん、知るというより「認識する」くらいがいいな、と。傍目に映るくらいの。知る、と構えてしまうと、どうしても100か0かの極論に向かってしまいがち。そうじゃなくて、仲良しではないけれど、なんとなくそこにいるな、くらいの感じ。例えば、お店で誰かがお水をこぼしたら、誰だってサッと拭いてあげますよね。そのくらいの距離感でパレスチナと繋がっていたい。
同じように支援活動も、「心からやりたいわけじゃないけど、やるしかないから、やる」っていう空気感のほうが健全な気がします。今まさに、傍目に映るくらいの距離感でも、「これはマズいぞ。」と分かるようなことが行われている。パレスチナの方々が、そういった状況に置かれていることは強調しておきたいです。
●始めてから 6年。今の景色はどうですか?
落ち着いています。すぐこう思えたわけではなくて、色々あって、ようやくいいところに着地したのかなと思います。自分でスタートして、自分で采配を振る。そこで、クナーファという他にはない差異が自分を助けてくれている。そんな今の状況に、すごく感謝しています。
Profile:山田 柊 Shu Yamada
週に一度、谷保で「クナーファ屋」を営む。パレスチナでの修行を経て、伝統的なレシピと、生活に寄り添う店の佇まいを学んだ。
Text : Sunny
Interview : mitsuharu yamamura
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)
2026.4.26