CHAPTER Vol.11 【THINK】

永井あやか (28)

価値あるものを作ろうとしたとき、そこには受け手の存在も必要。きちんと価値を感じ、感動し、対価を払う存在。わたしはあえて“生活者”でいることで、食の循環の一部でありたい。

CHAPTER

今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を

CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地はどちらですか?
大阪府です。大学卒業まで関西で過ごしました。

●幼少の頃について聞かせてください。
いわゆる“家族”のかたちにあてはまらない、とても自由でフェアな家庭で育ちました。なにごとも個人を尊重する両親で、妹と4人で、言ってみればシェアハウスをしているような感覚でした。いつもひとりの人間として接してくれて、「自分の人生は自分でたのしんでね」と何でも自分で決めるよう言われてきました。

●それが両親の教えだった?
“教え”というほど大げさなものではないんです。強い教育方針があったわけでも、おそらくありません。母は若くしてわたしを産んだので、子育てするというより、ただ一緒に生きるという感覚だったようです。ひとりの人間として人生をたのしむというスタンスを、わたしたちにも共有してくれていました。

●子ども扱いせず、ひとりの人間として対等な関係を築いてくれたのですね。
だからこそ、わたしは幼少期からずっと「家族って何だろう?」という問いを抱いてもきました。一方で、家族のように思えるひとたちとの出会いにも恵まれました。また妹とは、実家を出てから一緒に生きる意志みたいなものが生まれて、一時ロンドンに住んでいた彼女が日本に帰ってきてからふたり暮らしするように。

●子どもの頃の生活についても訊かせてください。どんなことをして過ごしていましたか?
毎日習いごとに行っていました。とくに踊りを通して表現することが好きで、ジャズダンス、バレエ、日本舞踊、フラダンスといろいろやりました。ほかにも、器械体操、水泳、空手、習字、英語など……、やりたいことが尽きなかった。ダンスは大学生の頃まで続けました。


ダンスという表現に出合って、“伝わる”という感覚がすごく好きになった。


●小・中学時代の思い出は?
そんな感じで、学外でやりたいことがいっぱいありました。もちろん仲良しの友達もいましたが、学校の外で遊んだりすることは少なかったように思います。

●高校時代には、将来の夢や目標について考えていましたか?
親のスタンスにも影響をうけ、小さい頃から、人生や「どう生きるか」について考えてきたので、将来の進路についても深く考えていました。両親はふたりとも美容師で、実家の下に美容室があるんです。そこにはいろんなお客さんが日々やってくるので、自分が気になる職業のひとに手当たり次第話を訊いたりもしていました。その頃は、「人間を知りたい!」という気持ちから人体への興味も湧いて、医者になりたいと考えていたんです。だから、「お医者さんの知り合いはいませんか?」とお客さんたちに訊いてまわったりして(笑)

●理系志望だったのですね。
高校時代は理系を選択していましたが、国語や英語の成績がよくて、実際は明らかに文系寄りでした。だから結局は、大学の学部は社会学部を選びました。

●どうして社会学部だった?
“伝わる”という感覚がすごく好きだったんです。美容室で毎日いろんなひととコミュニケーションをとることもたのしかったし、続けていたダンスでも、表現すると伝わる瞬間がある。その感動をもっと味わいたい、追求したいと思っていました。同時に、その頃はひとの心理も興味があって、社会学部ならメディアと心理学の両方をまなべると考えたんです。

●大学に入って、実際にそうしたことをまなべましたか?
大学では、場における伝わるちからに興味を持って、“空間”というメディアを研究していました。学校の授業より、海外でバックパッカーをしたり、サークルを作ってイベントの企画や企業とのコラボレートをしたり、ミスキャンパスとしての活動をしたりと、そうしたことにちからを注いでいた。とにかくやりたいことだけはたくさんあったので、10代最後のその時期にぜんぶやってやろうと思って行動していました。


大学時代に続けていた芸能活動を辞めることにした。“伝える”ことに関してはリアルな場における体験に魅力を感じ、また生み出すことから一貫して携わりたかった。


●なかでも印象に残っていることは?
とつは、オーストラリアとカンボジアにひとりで行ってみたこと。とくにカンボジアでの体験は、価値観をすっかり変えるものになりました。

●詳しく聞かせてください。
資本主義の内側で“貧困”と言われているような地域も、たとえば「愛をどれだけ感じて生きているか」といった別の指標のうえでは、まったく違った様相をあらわすように、世界にはいろんな“豊かさ”があることを身をもって感じることができました。とくに大学時代は学校の成績や見た目といった可視的な指標にとらわれがちな時期だっただけに、ハッとさせられましたね。また、日本はさまざまな面で恵まれた環境だと改めて認識し、そこでやりたいことをできないのは自分の責任だな、と。「やりたいことをぜんぶやろう」という気持ちにも、ますます拍車がかかりました(笑)

●ほかに、とりわけちからを注いだことは?
大学在学中の4年間は、芸能事務所に入って、レポーターやナレーションといったテレビの仕事もしていました。関西のテレビ番組に4本レギュラーを持って、まわりからは卒業後もそのまま芸能活動を続けていくだろうとも思われていました。でも、「テレビじゃないな」という気持ちがあった。もちろんそれも“伝える”という仕事でしたが、わたしは、リアルな場における体験に魅力を感じていた。それに、できあがったモノを最後に届ける役割より、生み出すところから伝えるまでに一貫して携わりたいと思っていました。だから最終的には、芸能活動を辞めることに決めたんです。


きっと会社を離れても、ひととひとがともに生きるコミュニティーについてずっと考えていく。そう心から思えたことが、次へ進むきっかけになった。


●その後、卒業後の進路はどのように決めましたか?
カフェ・カンパニー(※1)の社長・楠本さんの著書『ラブ、ピース&カンパニー こらからの仕事50の視点』を偶然手にとって、感銘を受けたんです。そこには「言葉にできないことを大切にすることが、新しい時代の風景を作る」といったことが書かれてあって、リアルな場を通してひととひととの交わりを作ることを目指していたわたしには、共感するところが多くあった。フェイスブックのメッセンジャーを通してすぐに連絡してみました。それから半年後に返事があって、そこで働かせてもらえることに。2022年の夏まで、5年間勤めました。

※ 1:2001年創業。「CAFE = Community Access For Everyone(食を通じたコミュニティの創造)」という理念をかかげ、路面や商業施設内の飲食店、サービスエリア、ホテルなど、日本国内外において100店舗以上を企画・運営する。また2021年からは、多様でサステナブルな社会を実現するため、「イートテック」を推進することで「Eating Design Company」を目指す。

●そのあいだ、どんな仕事に携わってきましたか?
主に新規事業の担当でした。たとえば直近では、グッドイートカンパニー(※2)という会社の立ち上げを任されました。発端は、コロナウイルス対策をおこなう政府への政策提言を、社長とともにおこなうところからはじまったプロジェクトでした。そこから、食の文化継承を目的とした会社を自分たちが率先して立ち上げる方向にシフトしたんです。最後の2年弱は、そこに注力していましたね。

※2:「日本の食を愛する、すべての人の思い・体験・技術を未来につなぎ、世界中へ拡げる」というミッションのもと、日本の高い技術や繊細な味覚とテクノロジーを掛け合わせ、強い食産業を育むインフラを創造すべく、2021年より始動。飲食店、料理人・生産者・食品加工業等の事業者とともに、食の体験価値を共創し、食産業の発展に寄与することを目指す。

●カフェ・カンパニーを辞めることにした理由は?
そこで自分にできることはぜんぶやりきった、と思えたからかな。グッドイートカンパニーを作ったあと、日本の食産業における未来戦略をテーマにした『おいしい経済』という本をまとめたのですが、その完成もきっかけでした。最終的には、「わたしはきっと会社を離れても、ひととひとがともに生きるコミュニティーについてずっと考えていくんだ」と心から思えた。そしてそのタイミングで、海外に住んでみようという気持ちになったんです。


価値あるものを作ろうとしたとき、そこには受け手の存在も必要。きちんと価値を感じ、感動し、対価を払う存在。わたしはあえて“生活者”でいることで、食の循環の一部でありたい。


●そもそもの話ですが、どうして食にまつわる仕事を選んだのでしょう?
カフェ・カンパニーを選んだのは、食の仕事だからではなく、場を通したコミュニケーションに興味があったからでした。とくに食べるのが大好きというわけでもなかったので、、最初は自信がありませんでした。でも、辞めるときになってようやく納得できた部分もあって。わたしは、生き物や環境に真剣に向き合うひとたちの、その生き方に惚れたんです。そして、食の持つ有機的な社会性みたいなものも自分の価値観とぴったり合っていたんだと、いまは実感しています。

●食の持つ有機的な社会性?
魚や野菜といった食べ物は、もとをたどれば海や土からはじまって、自分の日常生活の一部でもあるし、それが社会ともつながっていて、また地球に戻っていく。その循環の尊さに、あるとき思い至ったんです。だから、仕事というよりむしろ生き方として、わたしは食に携わっていたとも言えます。

●これからも仕事として食に携わるのでしょうか?
仕事として携わるかはわかりません。というのも、わたしはひととひとがともに生きていく中心にいつも食があると思っています。ひとと生きる人生を考え続けるとき、食についてもおのずと考えることになるはず。だから、わたしは“生活者”であることで食と関わり続けたいと思っています。なにか価値あるものを作ろうとしたとき、作り手はもちろん、そこには受け手の存在も必要です。きちんと価値を感じ、感動し、対価を払う存在。わたしはそうした立場でいることで、食の社会的価値を高めるような、循環の一部になりたいと思っています。


わたしはいつでも、ひとりの人間としてどう生きたいかを考えているだけ。なにを食べ、どこに行って、どんな会話をしたいのか。一つひとつに意志を持ち、自分起点で考えることが、ひいてはまわりのひとや社会、地球に影響を与えていくと信じています。


●食の世界を知ったことで、本来やろうとしていた“生み出す”も“伝える”も飛び越えて、その先の視点に到達したということですね。2022年9月からはロンドンに移り住むそうですね。なにをして過ごす予定ですか?
なにも決めていないんです。ぜんぶやりきったと思った瞬間に、「ただ生きる場所を変えてみるだけでいいや」という気持ちになりました。たぶんわたしは、いつでもひとりの人間としてどう生きたいかを考えているだけなんだと思います。この時代をどうやって生き、なにを食べて、どこに行って、どんな会話をしたいのか。その一つひとつに意志を持ち、自分起点で人生について考えることが、ひいてはまわりのひとや社会、地球に影響を与えていくと信じています。

●ロンドンを選んだ理由はありますか?
いろんな国に行ってみて、住むならロンドンだと思っていました。妹も一時期住んでいましたし、お母さんもイギリスのカルチャーが大好き。自分のホームに近い感覚ですね。

●やはり真ん中には家族の存在があるのですね。最後に、将来の夢について訊かせてください。
大切なひとたちがいつでも帰ってこられる“家”を作ることです。家に帰ると、自分が本来の自分に戻って、また外の世界の冒険を楽しめる。わたしはそんな風に感じています。もし大きな冒険をするには、深く帰れる場所が必要。だから、ロンドンから東京に戻ってきたときには、集合住宅みたいなものを作りたいと考えています。わたしには子育てを自分ひとりでするイメージもないし、まわりのみんなと助け合いながらともに生きていける環境を作りたい。それは自分のための場所ですが、同時に社会にとっての、選択肢のひとつにもなればいいなと思っています。


Profile:永井 あやか Ayaka Nagai

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Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : Gaku Sato

2022.08.28