CHAPTER Vol.13 【EAT】

伊藤 瑶起 (28)

Sputnik オーナー

いつか憧れの店で見た光景が、いままさに、スプートニクに。「自分の店を持ちたい」という、ただそれだけの気持ちからはじまり、でも蓋を開けてみれば、結局はその光景を見るためだったと、そんな風に感じている。ここからが本当のスタートだったんだ、と。

CHAPTER

今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を

CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地はどちらですか?
生まれは三重県四日市市です。でも、銀行員だった父の仕事の都合で、生まれてすぐにブラジルへ行くことに。帰ってきてからは東京で2年ほど暮らし、その後、一家で横浜へ引っ越しました。“出身”というと、ちょっと複雑ですね。

●ブラジルにいたのはどれくらいでしたか? 覚えていることはありますか?
5歳までいましたが、ほとんど記憶にはありません。4歳下に妹がいますが、彼女もブラジルで生まれました。

●お父さんは銀行員だということでしたが、両親はどんなひとでしたか?
父は硬めというか、昔ながらの典型的な父親像を思い浮かべてください。僕がこの仕事をすると決めたときにも、かなり反対されましたね。母は心配性。もとは銀行で働いていたそうですが、結婚してからは専業主婦をやったり、パートをしたり。

●両親に教えられたことでいまも心に残っていることはありますか?
「なにごとも、できるだけ選択肢を多く持てる状態にあるように」ということ。100あるうち100から選べる状態から1を選ぶのと、10から1を選ぶのは、同じようで違う。そうしたことは常に言われてきましたね。でも、実践できてきたかというと、わかりません。


サードウェーブブームをきっかけに、スペシャリティコーヒーの世界へ足を踏み入れた。オープンして半年くらいのコーヒーハウス ニシヤを初めて訪れたとき、西谷さんの働く姿を見て、「僕もこの仕事をしよう」と決めた。


●自分で選択する、というと、最初の大きなポイントは、受験などでしょうか。
高校受験はしましたが、中学時代に通っていた塾が進学塾だったこともあって、どちらかというと環境に流されてという感じでした。自分で積極的に選んだという意識は、あまりありませんね。

●慶應義塾高校へ入学し、そこから慶應義塾大学へ進学したと伺いました。
いわゆるエスカレーター式ですね。ロクに勉強もせず、部活ばかりやってました。大学の学部は成績順に選べることになっていたのですが、ギリギリの成績で経済学部へ。

●大学時代に力を注いだことは?
経済学部に入ってみたはいいものの、向いていないことにのちのち気づいて……。数学的なことが苦手だったんですよ。結局、単位を落としまくって、4年生のときには1年間留年しました。学外のことで言えば、1年生の頃からスターバックスでアルバイトをはじめて、それが初めての飲食業界での仕事でした。

●いまの仕事に結びつくきっかけになった?
いえ、直接関係はないと思います。むしろ、同じ時期に起こったサードウェーブブームがきっかけです。ちょうど雑誌『ブルータス』などでも、サードウェーブ系のコーヒーショップやスペシャリティコーヒーが初めて特集された頃で、僕も興味が湧いてそうした店に足を運んでみるようになったんです。オープンして半年くらいのコーヒーハウス ニシヤ(※1)を初めて訪れたのもそのとき。西谷さんの働く姿を見て、「僕もこの仕事をしよう」と決めました。

※1:2013年、パティシエ、コック、ギャルソンの経歴を持つバリスタ・西谷恭兵がオープンしたコーヒースタンド。イタリアや欧米をはじめ各国のコーヒー文化を取り入れた店づくりが特徴。日本のスペシャリティコーヒー文化の礎を築きながら、渋谷の地域にも根差し、多くのコーヒー好きから愛された。2022年には浅草に移り、コーヒーカウンター ニシヤとして再出発した。


お客さんへの声のかけかた、カウンターの奥の鏡からさりげなく店内を見渡し、気を配る視線。それでいて、隣り合うお客さん同士を自然とつなげたり、外を歩く常連さんに窓から手を振ったりと、気さくでフランク。その姿がとにかくカッコよかった。


●何がそこまでの気持ちにさせたのですか?
まず、とにかくカッコよかったんですよね。シャツをビシッと着て、ネクタイを締めて、パッチワークのベストを着て立っている姿が。お客さんへの声のかけかた、カウンターの奥の鏡からさりげなく店内を見渡して、つねにどのお客さんにも気を配っている視線。それでいて、気さくでフランクなんです。隣り合うお客さん同士を自然とつなげたり、外を歩く常連さんに窓から手を振ったり……。コーヒーショップだけど、モノを売るだけじゃない、という意志が伝わってきて、どのサードウェーブ系のコーヒーショップと比べても異質でした。僕は、その頃「目立ちたくないけど、目立ちたい」みたいな気持ちを抱えていたんです。というのも、大学へエスカレーター式に入学して、企業への就職も望めば叶うような環境にいることに覚える安心感に、それがむしろ不安でしょうがなかった。思えばカウンターサービスって、ときに黒子であるし、ときに演者でもある、まさに「目立ちたくない、目立ちたい」のはざまにある仕事。だから、その究極のサービスにも惹かれたのかもしれません。

●その頃の自分の心境に、西谷さんのスタイルやひととなり、質の高いサービスが非常に眩しかったのですね。
それからは、多い週だと毎日のように店に通うようになって。西谷さんが穿いているデニムまで真似してみたり(笑) 。ちょうど20歳の頃だったので、お酒の飲み方もしかり、カウンター越しにさまざまなことを教えてもらいました。

●印象に残っている言葉などはありますか?
「ひととしてきちんと」みたいなことはずっと言われてきました。「デニムの丈も大事だけど、身の丈も大事だよ」とか。僕としては、「ちょっと背伸び」くらいがちょうどいいなと思っていた頃ですが(笑)。 それこそ大学生の当時、西谷さんのところでカウンターに座ってコーヒーを飲むことも、少し背伸びする気持ちでしたから。店に行っても、いつも3分くらいしか滞在しませんでした。それも、西谷さんと余計に話し込まず、エスプレッソを飲んでサッと出ていくのがカッコいいと思っていたから。それがあの場所の使い方だと思っていた。あくまで僕にとっては、ですが。


店を開くために必要なことを、一つひとつ潰していった。コーヒーを本格的に学び、お酒を扱っている老舗で働き、そして、企業に属して部下を持ち、新店の立ち上げを経験する。すべては、“通える店”をつくるため。


●ニシヤに通いはじめてから、スプートニクをオープンするに至った経緯についても訊かせてください。大学卒業まではどのように過ごしましたか?
大学3年生になるタイミングで、ポールバセット(※2)にアルバイト入社しました。フグレン(※3)やオニバスコーヒー(※4)を開いたバリスタたちもみんなポール出身なので、いずれ独立することを考えている身としては、ほかにない場所。コーヒーを淹れられるようになるまでには2年以上かかることもザラにある、とても厳しい環境でしたが、それでも、大学に行く前に毎朝練習に行き、夕方はシフトに入っていない日でも店で練習をして、閉店作業を手伝ってから、終電間際くらいまでまた練習、そして翌朝また……と、猛練習をした甲斐もあって、8、9ヶ月ほどでバリスタになることができた。おそらく、大学生としては初めてだったと思います。

※2:バリスタ世界チャンピオンのポール・バセットよるエスプレッソカフェ。豆、焙煎、バリスタという3軸への徹底的なこだわりを掲げ、世界中から厳選されたコーヒー豆を店内に設置された焙煎機で自家ローストしながら提供する。

※3:1963年、ノルウェーのオスロにできた小さなカフェ。その後、北欧のビンテージデザイン、カクテルバーのコンセプトが加わり、オスロのコーヒースタンダードを高めてきた。2012年、海外進出第1号店を東京・渋谷にオープン。2014年からは日本国内での焙煎をスタート。日本の代表である、小島賢治は、ポール・バセットでバリスタをしていた経歴を持つ。

※4:バックパッカーとして訪れたオーストラリアのコーヒーカルチャーに触発され、帰国後ポール・バセットでコーヒーを学んだ坂尾篤史が、2012年にオープンしたコーヒーショップ。生産者との持続可能な取引を心がけるほか、2019年からはコーヒー滓から培養土を作り、資源循環を図るなど、エシカルな取り組みにも力をいれる。

●いつか自分の店を持つために、邁進しはじめたのですね。大学を出るとき、就職活動はしましたか?
しませんでした。やりたいお店像みたいなものは、ポールで働いている頃からもうできていて、とくに「スプートニク」という名前だけは最初に決めていました。それからは、やりたい店を開くために必要なことを、ただ一つひとつ潰していった。ポールでコーヒーを本格的に学んでからは、お酒を扱っている、それも長く続く店で働きたいと思った。というのも、スプートニクを10年、20年続く店にしたかったので。それで、代々木上原のファイヤーキングカフェに社員入社しました。18時から3時まで、バーテンダーやホールを担当。そのあと、今度は企業に属して部下を持つ経験をしたかった。それで、シンクグリーンプロデュース(※5)に入って、マスタードホテル渋谷のバーラウンジ・ミーガンでホールとバーのマネージャーを兼任。また、新店の立ち上げにも携わりました。

※5:現・グリーニング。不動産や建築の基本計画、さらにデザイン・飲食・サービスなどの運営まで、計画とオペレーションの両面から「まちづくり」全体にコミットする。小田急線世田谷代田駅〜東北沢駅までの1.7kmの鉄道跡地開発プロジェクト「下北線路街」においては、商業空間リロードのマスターリースから、テナント誘致、開業販促、ポップアップスペース・イベントスペースの運営やエリアマネジメントまで包括的に担う。

●コーヒーショップを開くうえで必要な条件を、そこまで細かく、それもわざわざ複数の店や会社を渡り歩いてまで押さえていくひとはそういないのではないかと思います。どうして、そこまでする必要があったのでしょう?
コーヒーだけの店にしたくなかったからです。カウンターがあって、朝から晩まで開いている、“通える”店をつくりたかった。物件を渋谷近辺に絞って探したのも、なにかのついでに寄ってもらえる場所にしたかったから。最後は、資金の問題も2020年末になんとか目処がついて、2021年5月の開業にいたります。26歳のときですが、正直、そんなに早く自分の店を持てるとは思っていませんでした。


いつか西谷さんの店で見たような光景が、まさにここに生まれた。「自分の店を持ちたい」という、ただそれだけの気持ちからはじまり、でも蓋を開けてみれば、結局はその光景を見るためだったと、そんな風に感じている。ここからが本当のスタートだったんだ、と。


●オープンしてから1年。振り返ってみて、店についてどのように感じていますか?
昼と夜、それぞれの時間帯をそれぞれに楽しんでくれるお客さんが多いことを、うれしく思っています。カフェとバーのどちらにも偏っていなくて、ちゃんと棲み分けができているというか。たぶん、商品が普通だからだと思うんです。たとえばバーの時間なら、新しいものや珍しいものを求めてじゃなく、ただ疲れたときの一杯や、いつもの仲間と集まりたいときに、ふらっとお酒を飲みにやってくるひとが多い、とか。

●まさに“通える店”として、すでに愛されている。
いつか西谷さんの店で見たような、カウンターに並んだひと同士が自然と仲良くなるといった光景も、まさにこの店で目にしています。僕自身も、近所に住んでいながら知らなかったひとと、ふと交流が生まれたり。スタートは、ただ「自分の店を持ちたい」という想いでしたが、店が出来上がってみると、結局は、そうした光景のためだったんだと、そんな風に感じています。ここからが本当のスタートだったんだ、と。

●最後に、今後の展望について訊かせてもらえますか?
隣の物件が空いたら、店を拡張して、そっちで食事を出したいと思っています。8席くらいで、おまかせ一本の料理をワインと楽しめる店。隣で、というのは、自分が店に立つことのできる、目の届く範囲だから。働いていたファイヤーキングカフェも、じつはそんな風に店を拡張して、最終的に3倍くらいの広さになったそうなんです。僕が働いているあいだ、カウンターにはいつも50代くらいになるオーナーが文字通り毎日立っていて、コーヒーを淹れたり、常連さんと話したり、iPadで音楽を流したりしていた。オーナーは店に立つものだと、その頃から当たり前のように考えています。


Profile:伊藤 瑶起 Tamaki Ito

Instagram


Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : Gaku Sato / Masahiro Kosaka(CORNELL)

2022.10.1