CHAPTER Vol.14 【EAT】

伊藤 渉 (29)

青果ミコト屋 料理・接客担当

ミコト屋のやっていることが、全国に広まればいいなと思う。なにもミコト屋の商品を買ってもらわなくてもいい。ここの野菜を見て、なにかを感じ取ってもらいたい。それで、少しでも自分のなかでいいと思える野菜を、毎日の料理に使ってほしい。

CHAPTER

今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を

CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地はどちらですか?
岐阜県です。ひいばあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん、両親、9個上の兄、8個上の姉という4世代で、木曽檜が有名な地域で暮らしていました。おじいちゃんとおばあちゃんは兼業農家だったので、畑や田んぼを持っていて、僕も小さい頃からそこで遊んだり、農作業を手伝ったりして過ごしました。

●ご両親のお仕事は?
お父さんはショベルカーやトラクターといった農機具の修理工を個人でやっていて、母は、いまは飲食店のアルバイトをしています。

●みんな、食にかかわる仕事に携わっているのですね。どんなご両親ですか?
父は、めちゃくちゃ不器用で、愛情表現をしないひとでした。やさしいのですが、自分は自分と、いつも仕事優先で愛情を感じられなかった。母は、ただただやさしいひとです。でも、悪いことをして怒られることも、その分あまりなかったですね。いまでもずっと仲が良いです。

●ご両親の背中を追って、食の道を志したわけではない?
直接的なきっかけではないと思います。でも、昔は好きになれなかった父のことも、いまでは尊敬しています。仕事で農家さんに会いに行って父の仕事の話をすると、「紹介してよ! いまは、農機具を直せるひとなんてなかなかいないから」なんて言われるんです。そういう話を聞くと、すごい仕事なんだな、と思いますね。食のおもしろさを教えてくれて、自分の根底をつくってくれたのは、家族のなかでは間違いなくおじいちゃん、おばあちゃんです。


よく覚えているのは、「植えたらなにか成るから、なにか植えてろ」というおじいちゃんの言葉。土に種を植えれば、どんなにヘンテコなかたちの人参でもできる。それで、おいしく食べつないでいける。


●おじいちゃん、おばあちゃんと過ごしたなかで、印象に残っている出来事はありますか?
特別なことはありませんが、毎日畑や田んぼで一緒に過ごす時間は、とにかく楽しいものでした。部活から帰ってきてから農作業を手伝ったり、そこでできたきゅうりやトマトを友達と一緒に採って、おやつ代わりに食べたり。ていねいに愛情をかけてつくられたものを「良い」と感じるのは、おじいちゃん、おばあちゃんがつくる野菜や保存食に触れて育ったからかもしれません。

●彼らからの教えやかけてもらった言葉で、とくに覚えているものはありますか?
一緒に農作業をしながら、「ひとにやさしくしなさい」といったことからはじまり、いろいろなことを教えてもらいました。なかでもよく覚えているのは、「植えたらなにか成るから、なにか植えてろ」というおじいちゃんの言葉。深いようで当たり前のことなんですけど、いまは土地も種もいくらでもある時代だし、「食べものがなくなってきている」みたいに言われたりもしますが、でも、あるのにやらないだけなんですよね。土に種を植えれば、それだけで、どんなにヘンテコなかたちの人参でもできるんです。それで、おいしく食べつないでいける。

●お兄さん、お姉さんはどんな存在でしたか?
赤裸々に話すと、兄には荒れていた時期があって、その頃は家族みんなも大変でした。同じ時期、僕も学校で過剰にいじられていたりして、正直、学校に行きたくないとも思っていました。でも、兄のことがあるので両親には言えず、負けちゃいけない、踏みとどまらないといけない、となんとか堪えていました。そういうときも、家に帰って土を触っているときが、唯一、心が癒される時間でした。とはいえ兄も、いまはすごくいいひとと出会って結婚し、借金も返してきちんと働いていて、両親とも仲良しです。姉は、ときには母の代わりのような存在になって、僕のことを可愛がってくれました。姉と姉の彼氏と3人で買い物に行って、洋服を買ってもらったりもしていましたね。そんな姉が調理学校に通いはじめたのを見て、「俺も行きたい」と思って専門学校を目指したのが、食の道に進んだ最初の一歩だったんです。

●最初から、料理人になろうと思っていた?
いえ、ほとんど「なんとなく」といった気持ちでした。実際、僕の入った調理学校には本気でシェフになりたいと考えているようなひともほとんどいなくて、僕自身も、結局2年間をただただ遊んで過ごしてしまいました……。それでも食べることはずっと好きで、おいしいものにはお金と時間をかけていましたね。


専門学校の授業の一環で行った職場体験が転機だった。イタリアレストランで料理の世界の厳しさを知り、いちどは料理の道を諦めそうになるも、それでも捨てきれず、またレストランで働くことに。


●その頃、いまの仕事につながるような出来事や、力を入れていたことはありますか?
授業の一環で行った職場体験は、転機でした。2週間、あるイタリアレストランで働いたのですが、それが死ぬほど厳しい環境で……。自分も容量が悪かったのですが、毎日オーナーシェフから怒鳴られ、萎縮してしまって、それでまた怒られて……、と地獄のような日々。で、インターン後半のある日、「前菜盛りやってみろ」と突然言われたんです。1回目は「汚ねえよ」と言われてダメだったのですが、2回目にやったとき、「出せ」となんとかOKをもらえました。後日、ある先輩が「シェフが前菜盛りをやらせたインターンは、お前が初めてだよ」と教えてくれて。ほかの先輩からも、「これまでのインターンのなかで、渉を一番いいと思ってるらしいぞ」なんてことも言われて……。

●期待ゆえの厳しさだったと。
結局、そのままサービスマンとしてバイトしないか、とも誘われました。でもそのときはとにかく疲れ果てていて、「無理です! 怖いです!」と断ってしまって(笑) そのことはいまも後悔していますが、あのときの精神状態ではさすがに選べなかったですね……。そのレストランには、いまでも大事な記念日なんかに、シェフの料理を食べに行ったりしています。だからレストランにはトラウマがあって、専門学校を出るときは、カフェで働く道を選びました。

●それはどんなカフェでしたか?
オーガニックの野菜を使った料理も出しているカフェで、2年間勤めました。そこのシェフは、職場体験したレストランのシェフとは真逆のひとでした。怒ることもなければ、その分、なにも教えてくれなくて。「俺に興味ないんだろうな……」と、物足りなさを感じるようになって、スターバックスへ転職しました。

●食や料理の道とは少し外れる選択のように思えます。
そうなんです。ただ、「どうしてスタバの店員さんは、みんな笑顔で楽しそうに仕事をしているんだろう?」と、その秘密を知りたかったんです。そのときの店長はすごくいいひとで、仕事も楽しかったですね。「笑ってればどうにかなるから、とにかく笑おう」と、入りたての頃に店長から言われたのを覚えています。仕事ができなくても、とりあえず笑顔さえ絶やさなければお客さんは喜んでくれるから、と。すごく面白い考え方だな、と感動しました。「お客さんのためなら何をしてもいい」という社風だったので、それもいまの自分のホスピタリティに大きく影響を与えてくれたと思います。

●おじいさんの、「何でもいいから植えろ」の考え方にもどこか通じるような感じがしますね。
1年半働きましたが、やはり料理の道を捨てきれず、今度はレストランの働き口を探して北海道、新潟、和歌山などの気になるお店へ面接を受けに行ったり、結婚式場の調理場でのアルバイトをしたりしていました。ようやく見つけたのが、調布のマルタ(※1)という薪火料理レストラン。店の裏にハーブ園もあって、そこで採れた野菜と薪火を使って料理するというところに興味を持ちました。面接を受けてそこで働くことになったのが、27歳のときでした。

※1:ローカルファーストを大切に、地域の生産者から提供されるオーガニックな食材を使用する、薪火料理レストラン。深大寺ガーデンに一軒家をかまえ、暖炉の薪火で焼いた料理を大皿に盛り、5.5mのロングテーブルを囲んでシェアするスタイルをたのしめる。


人参ひとつとっても、農家違いでそれぞれに味も違えば適した調理法も違う。そこにグッときた。全国には何千何万という農家があり、ひとの数だけ違う野菜がある。その厚みや幅は、レストランでは到底伝えられなかった。


●もういちど料理の道を進んでみることにしたわけですね。その店では、思い描いていたような働き方ができましたか?
料理もロクにできないし、容量も悪かったので、ずっと怒られていました。劣等感しかなかったですね。でも、すごく楽しくもあって。みんなすごく仲が良かったし、本気で料理と向き合うことができた1年間でした。ちょうどその頃インスタで見て興味を持っていたのが、いま働いている青果ミコト屋(※2)で、そこで働いてみたいと思うように。

※2:旅する八百屋「青果ミコト屋」。「野菜は人を映し出す」をモットーに、自分たちの目と鼻と感覚で吟味した確かな野菜をセレクト。キャンピングカーでの移動式八百屋をはじめ、旅の拠点である「micotoya house」では素材を活かしたフレッシュジュースやフード、クラフトアイスクリームを販売するなど、野菜に向き合い、ひととふれあい、その魅力を多角的に発信する。

●自然栽培の野菜を全国各地の生産者から直接仕入れ、販売する八百屋さんですね。通常市場に並ばず廃棄されてしまう規格外の野菜にも目を向け、生産者と消費者をつなぐ役割も果たしているとか。そこで働くことを選んだ理由は何でしたか?
単純に、すごくカッコいいことをしているなと。マルタで働いたことで、幼少の経験に立ち返って、もっと野菜のことを知りたいと思いはじていたところだったのもひとつ。それで、週2回、配達ドライバーとしてミコト屋で働くことになったんです。

●入ってみて、いかがでしたか?
まず衝撃を受けたのは、たとえば人参ひとつとっても、農家さん違いで4種類以上取り扱いがあるということ。それぞれに味も違えば、適した調理法も違う。そんなところにグッときました。全国には何千何万という農家さんがいて、ひとの数だけ違う野菜がある。その厚みや幅は、レストランでは到底伝えられなかった。少しするとミコト屋が青葉区に店舗を構えると決まり、それからは、店頭での接客やランチ営業のときの料理を担当することになったんです。


ミコト屋のやっていることが、全国に広まればいいなと思う。なにもミコト屋の商品を買ってもらわなくてもいい。ここの野菜を見て、なにかを感じ取ってもらいたい。それで、少しでも自分のなかでいいと思える野菜を、毎日の料理に使ってほしい。


●振り返ると、食の道を志してから、紆余曲折がありましたね。まさにおじいちゃんの言葉通り、さまざまなところに種を蒔き続けてきた。そんな風にも捉えられます。芽吹かなくても諦めず、とにかく可能性の種を蒔き続けたわけですよね。
自分にもっと才能があれば、脇目も振らず料理人を目指してやってこられたのかもしれません。でも、そうはいかなかった分、いろんな場所でいろんな素敵なひとに出会って、その都度まなんで、いまの仕事ができているんだとも思います。

●そんな“ひととの出会い”には、ミコト屋に入ってからも恵まれていますか?
「野菜って、どうしておいしいんだろう」と改めて考えてみると、ミコト屋で働いているからこそわかるのは、やはり“ひと”だということ。つくるひとによって、同じ品種の野菜でもまったく味が違う。どれだけ愛情をかけているかは、ちゃんとおいしさに表れます。僕がいま感じている野菜のおもしろさは、まさにそこにあって、出会う農家さんのだれもに興味があります。これからも野菜や料理を通して、なにより“ひと”と関わっていきたいです。

●これからの話が出たところで、最後に、将来の夢について訊かせてください。
ミコト屋のやっていることが、全国に広まればいいなと思っています。なにもミコト屋の商品を買ってもらわなくてもいいんです。ここの野菜を見て、なにかを感じ取ってもらいたい。それで、少しでも自分のなかでいいと思えるものを、毎日の料理に使ってほしい。そして、やっぱり料理も好きなので、これからもひとが集まる場所で、野菜を使っておいしい料理を振る舞いたいです。野菜と接してきた時間の長さだけはほかのひとに負けないので、それを生かしながら、そのおいしさを伝え広めていきたいと思っています。


Profile:伊藤 渉 Wataru Ito

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Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Photo : Gaku Sato
Interview : Masahiro Kosaka(CORNELL)

2022.10.28