CHAPTER vol.22【EXPRESS】

小澤 彩聖 (28)

写真家 / PIXEL inc. / hanpo inc.

場所をつくることも、イベントをつくることも。そして写真を撮ることも、全てに共通しているのは
“誰かの人生に対して生きる糧になるような機会”を届けていきたいということ。

CHAPTER

今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を

CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地はどちらですか?
生まれ育ちは川崎です。川崎駅すぐ近くの工業エリアで生まれて、中学校を卒業するまで過ごし、高校から藤沢にある学校に通い始めました。

●兄弟はいますか?
男3人兄弟の長男で、4歳と7歳年下の弟がいます。男3人兄弟の長男ということが今の自分のキャラクターに大きく影響しているなと思いますし、年を重ねるごとにより一層、弟たちが自分の背中を見て育っているなと感じています。

●というと?
自分を真似て子供のころに野球を始めたのもそうだし、リレーのアンカーや応援団長を務めるなど。今では次男は映像クリエイターとして大きな案件も受けていて。大人になってからも近い道を歩んでいる、そんな気がします。

●それぞれ性格も似ているのでしょうか?
性格は似ていなくて(笑)。よく親に言われるのは、彩聖は一人で旅に出たり外の世界に飛び込んでいけるけど、次男三男はそういうタイプでは無かったと。ただなりたい姿やありたい姿、自由に生きるという価値観は似ているのかなとは思います。

●幼少期はどのように過ごしていましたか?
両親が共に仕事を辞めてワーホリに行っていたこともあり、そうした経験を自分たちにもさせたいという想いから、小さい頃によく海外旅行に連れて行ってもらったことは今でも鮮明に覚えています。中でも小学5年生のときに一人でアメリカに野球留学に行ったことは大きな経験です。それからもっと世界を知りたいという想いが増していきました。


子供のころから何かをしたいときや何かが欲しい時に、「どうして?」と理由を問われることが多くて。その経験から物事を自分自身で考えて、きちんと“自分の言葉”で伝えられるようになったことは大きいです。


●ご両親はどのようなお仕事をされていたのですか?
父は祖父が創業した電気配線をつくるような仕事をしていて、母はもともとホテルで働いていたり、父母会で何かの役割を務めたり、今では結婚相談所の仕事をしていたり。そうした“人好きな性格”というのは母親譲りな気がします。

●ご両親から受けた影響はありますか?
挨拶の大切さは両親から学んだことの一つです。おはよう、おやすみや、いただきます、ごちそうさまをきちんと言わないと怒られたり、友達が家に遊びに来た時にも挨拶ができないと叱る、みたいな。そうした人としての在り方は親からも教わりましたし、野球を通しても学びました。あとは、子供のころから何かをしたいときや何かが欲しい時に、「どうして?」と理由を問われることが多くて。その経験から物事を自分自身で考えて、きちんと“自分の言葉”で伝えられるようになったことは大きいです。

●少し話が戻りますが、野球はいつから始めたのでしょうか?
小学1年生から高校1年生まで。中学から野球のクラブチームに入り、平日は中学校のバドミントン部でスポーツ漬けの日々を送っていました。高校も日大藤沢という強豪校に行ったのですが、野球が強いというのはもちろん周りに優秀な生徒も多く、あらゆることに理由を問われるんですよね。監督や先輩から指導を受けたときに、「すみません」とか「分かりません」とか一切通用しなくて。ちゃんと自分の言葉で理由を言わないとものすごい怒られる、みたいな。勉強もあまりできないということもあり、最終的に文武両立が難しくなったときに病気にかかってしまい、10年間続けてきた野球を辞めました。


現地の生活や人にフィットし、心地よさを感じた。相手の国籍や立場や年齢に関係なくコミュニケーションを取った経験。それが今では接客業という「仕事」を通じて、どこまでフラットな関係性と適度な距離感でコミュニケーションを取れるかを考え続けていることに繋がっているんだなと。


●その後はどういう学生生活を?
本当はダメなんですけど、野球を辞めてからバイトをはじめて。そのバイト先で何かミスをしたときに、怒られてもきちんと理由と考えを伝えていたことから、彩聖は“怒られてもポジティブなドM”と言われるようになり(笑)。バイトを始めて気づいたことでもありましたが、親と野球から得たことは世の中でも通用するんだなと感じた瞬間でした。

●幼少期から無意識的に実践していたことが、社会で活かされたということですね。
そうですね。あとは高2の夏にオーストラリアに1カ月間留学した経験が非常に大きく、そのときに海外で働きたい、という想いが強まりました。母の提案で短期留学プログラムに参加したんですけど、実はもともと小学生のときに観た『ハイスクール・ミュージカル』(※1)が自分の中では大きくて。こんな世界が日本の外にはあるのか!と。その頃から海外で働くという選択肢があるのであれば、目指してみたいと思い始めるようになったんです。

※1:2006年にアメリカで放送されたアメリカ合衆国の架空の高校・イースト高校を舞台にしたミュージカル映画。

●小学5年生ぶりの一人での海外かと思いますが、それぞれを比べてみてどうですか?
正直5年生の時のアメリカ留学の記憶が全部残っているという訳ではないんですけど、ただ一つ明確に覚えているのは1日目はとてもホームシックで寂しかったのに、2日目にはもう帰りたくない、と思い始めちゃって(笑)。現地の生活や人にフィットし、心地よさを感じていて。当時から自分は人との関係性作りが得意で、相手の国籍や立場や年齢に関係なくコミュニケーションを取れるんだなと。それが今では接客業という仕事を通して、どこまでフラットな関係性と適度な距離感でコミュニケーションを取れるか考え続けていることに繋がっているんだなと、いま思いました。


自分自身の嗅覚を強く信じ、現地にいた先生に将来の夢を話したときの「この場所ならそれを叶えることが出来るかもしれない」と思わせてくれたことがきっかけ。


●アメリカとはことなる環境や文化があるかと思いますが、実際にオーストラリア留学に行かれてみてどうでしたか?
毎朝おはようとともにハグしてキスをして、家族で一緒に楽しい時間を過ごす日常が当たり前で、アメリカとはまた違う人のあたたかみや雰囲気を感じました。オーストラリアとアメリカというそれぞれの人と出会い、コミュニケーションを取れたことは自分の中では非常に大きな経験です。

●帰国してからどのように過ごされたのでしょうか?
時期的にも進路を考える機会が増えてきて、高校が進学校ということもあり、9割以上が大学進学が当たり前の世界でした。しかし、自分の中では海外で働くチャンスがあり、人と接することが出来て、直接感謝される仕事を自然と探しはじめて。そうしたときに母から「ホテルマンはどうか」と提案されたんです。実際に、高校2年生の冬に外国語の専門学校のオープンキャンパスに参加し、その学校の国際ホテル科へ行こうと決意しました。

●学校や周囲からの反対はありましたか?
先生には結構反対されたんですけど、周りがどうではなく自分はこうしたい、という想いを大切にしました。そういう意味では小さいころからの、理由や意志を大切にすることや、自由に生きたいという考えが、その場でも活きていたのかもしれません。

●実際にオープンキャンパスに参加して、それほどまでに引き寄せられる何かが?
オープンキャンパスの先生の話が上手いというのは大前提あるんですけど(笑)。自分自身の嗅覚を強く信じていて、現地にいた先生に将来の夢を話したときの「この場所ならそれを叶えることが出来るかもしれない」と思わせてくれたこと。そして何より、海外のディズニーランドで働くという選択肢を教えてもらい、ディズニーにものすごい憧れがあった訳ではなかったけど、目指してみたいと思い始めたのが理由です。



何者かになりたいけど何物にもなれていない自分がすごく嫌で。ある意味専門学校は全てがゼロから始まり、リスタートを切れる。だからこそ、入念に準備をした。


●それからはその専門学校への入学準備を始めたわけですね。
高校3年生の時には隠れて授業中に専門学校のパンフレットを読んだり、ディズニーランドのプログラムのことを調べてました(笑)。普通はオープンキャンパスに参加するのは一度だけなんだけど、最低でも月に一度はその学校のイベントに参加して、入学前から先生に怒られるみたいなことをしてましたね(笑)。

●入学前からすごい熱量ですね(笑)。
高校では勉強もできなければ部活もしていない、何者かになりたいけど何者にもなれていない自分がすごく嫌で。ある意味専門学校は全てがゼロから始まり、リスタートを切れる。だからこそ、入念に準備をしていたのはあります。

●実際に良いスタートダッシュを切れたのでは?
そうですね。先生には既に名前を覚えられているのはもちろんあるし、学生自体も分かりやすく男子が少なく、クラス代表や学科代表を務めたりしてました。

●学校に入る前と後で何かギャップはありましたか?
あくまで就職するための学校なので、ある程度の厳しさとこうあらればならないという日本独特の文化がありましたが、野球部の経験から痛くもかゆくも無くて。むしろそうした集団の中で自分らしさをどう表現するかを考えていたのはあります。仲の良い友人のバックパッカーの話しを聞き、自分もしてみたいという一心で専門1年生の夏に東南アジアを旅し、そのときに一眼レフで写真を取り始めたんです。


旅に出て、世界を見て、色んな人を知る、そうしたときに世の中には一体どんな生き方があるんだろうと思い始めた。


●そうだったんですね。
そうした経験のなかでもっとたくさんの大人と話したいと思い始めて、『TABI LABOアンバサダー』(※2)に応募して大人の集まりに参加したりしてました。当時から「カッコいい30歳になりたい」という内容の無い夢を持っていて、カッコいい大人ってどんな人だろうという想いから、いろんな人たちに会い続けてましたね。

※2:「新しい価値観や気づき」に出会うことができるWEBメディア『TABI LABO』が運営する旅好きのコミュニティ。

●そう思い始めたきっかけはあったのでしょうか?
旅に出て、世界を見て、色んな人を知る、そうしたときに世の中には一体どんな生き方があるんだろうと思い始めて。高橋歩さん(※3)や本田直之さん(※4)の本を読んで、ノマドワーカーとか自由人という言葉に憧れて考え始めたのがきっかけです。

※3:1972年東京生まれ。作家活動、オンラインスクール「WORLD DREAM SCHOOL」学長など、ジャンルにとらわれない活動を展開。
※4:レバレッジコンサルティング株式会社代表取締役社長。ハワイ、東京に拠点を構え、世界中の国々を旅しながら、仕事と遊びの垣根のないライフスタイルを送る。

●そうした大人たちとの出会いを通じ、自分自身の夢や目標に変化はありましたか?
入学した時点ではホテルマンになることと、卒業後にアメリカのディズニーのプログラムに参加すると決意はしていて。在学中に『ザ・ペニンシュラ東京』にある『ザ・ロビー』というオールデイダイニングでインターンシップを始めました。その利用者は、朝食が8~9割海外ゲストで、ランチは近隣のオフィスワーカー、アフターヌーンティーはマダムたちがほとんどで、ディナーは若いカップル、みたいな。異なる国籍や年齢に対する接客の中で、日本人と海外の人のコミュニケーションの違いを強く感じたんですよね。

●というと?
朝食でオムレツを提供しただけで、とても感動してくれる海外の方の反応に自分自身が感動しちゃって(笑)。もちろんこれまでも海外の経験はあるんだけど、こんなにも海外のゲストにサービスをすることが楽しいんだと感じたのがそのときで。一方、全員が全員そういうわけでは決してないんだけど、日本人利用者の中には感謝も言えない人がいたり、そもそも料理に感心が無い人もいて。その時に「これ自分がやらなくても良いんじゃないか?」と考えてしまい、日本でホテルマンになることは無いと決めたんです。むしろ海外で接客をすることへのモチベーションが高まり、より一層アメリカディズニーに行きたいと思うようになりました。


自分の夢を叶えることが誰かの感動になることが初めての経験で。それがいまでも大切にしている、自分の人生が誰かの人生にきっかけを与えることができる、という大きな軸が形成された。


●幼少期の海外の経験が日常生活におけるコミュニケーションだったのに対し、インターンシップではそれを「仕事」のなかで感じることができたという訳ですね。
そうなんです。ただ自分は話すという意味での英会話はとても好きだったんですけど、科目としての英語は全然できなくて。ただディズニーインターンシップに参加するにはものすごい倍率の中を、しかも英語による選考を通過しないといけないということもあり、、、1~2次は対策で何とかできたんですけど、最後の英語面接が現地のウォルトディズニーの人との英語面接で、参加希望者全員がTOEIC800点以上に対して自分は500点ちょいみたいな(笑)。

●なかなかの差がありますね(笑)。
それで最終面接に向けてひたすらに受け答え文章を作成してもらい、それを全部丸暗記したことが人生最大の勉強かもしれないです(笑)。

●もはや英会話ではないですね(笑)。
そうなんです(笑)。そうしていざ最終面接当日、用意した質問も来たんですけど、もちろん用意してない質問もそりゃ来るわけで、それに対して「Um…..Yes?」みたいな(笑)。しかもそれまでは英語面接は一度だけだったのに、何故かその日だけで二回あるということが発覚し、テンションとパッションとキャラクターで、自分はディズニーで働くべきだという熱い想いを伝えましたね(笑)。

●気になる結果は、、、?
それが周りの受験者には続々と不合格の結果が届くなか、自分のところへは1か月経っても通知が来なくて。そんなある日、弟の体育祭に訪れていた時に1通のメールが届き、手が震えながら開いたら「あなたは来年の3月よりフロリダディズニーに行っていただきます」と書かれていて、ぶわぁーと全身の鳥肌が立ったことは今でも鮮明に覚えています。体育祭の会場を駆け抜けて真っ先に両親に感謝の気持ちを伝え、お世話になった先生に報告すべく、川崎からすぐさま高田馬場へ向かい、教員室にいた先生と一緒に大喜びしました(笑)。

●すごい話ですね。
自分の夢を叶えることが誰かの感動になることが初めての経験で。それがいまでも大切にしている、自分の人生が誰かの人生にきっかけを与えることができる、という大きな軸が形成されましたね。


自分がしたことで相手だけでなく“自分を幸せにできる”ことが嬉しくて。こういう感情になれることを仕事にしたいと考えるようになり、それが一体何なのかを探し始めた。


●それからは渡米に向けた準備を?
そうですね。渡米に向けた準備を開始するとともに、当時はまだ海外のホテルで働きたいという夢があり、ハワイにあるディズニーのホテルで働くという帰国後のビジョンを持ってました。

●実際にディズニーでのインターンが始まってからはどうでしたか?
大前提、英語がまともにできなかったので、渡米直後のディズニー大学のオリエンテーションが本当に訳が分からず(笑)。そのプログラム自体は日本代表として、日本のおもてなし文化をアメリカディズニーで伝えるという趣旨のもので、園内にある『EPCOT』(※5)というパークを舞台に1年間ディズニーキャストとして働くものでした。

※5:フロリダ・ディズニー・ワールド・リゾートにある4つのディズニーパークの内の1つ。「実験的未来都市」”Experimental Prototype Community of Tomorrow”の頭文字から取られた世界11カ国の文化や食事を楽しめるワールド・ショーケース。

●なるほど。
世界中から集まるインターンメンバーとは一緒に共同生活もするんですけど、同期が最年少で男が自分だけみたいな環境で、特に最初の1カ月の研修期間は語学力的にも非常にきつかったですね、、、
半年くらいしたタイミングで、ここで英語を学ぼうとするのはそもそも間違えているかもしれないし、1年しかない生活をいかに楽しめるか、日本人キャストとしてお客様をエンターテインできるかにシフトしようと決めたんです。

●考えを振り切ったということですね。
研修後は、日本館の中にある鉄板料理屋で働き始めたんですけど、そこがまたトップ争いレベルのレストランで、英語ももちろんなんだけどいかにオペレーションをスムーズに行えるかを叩き込まれました。ディズニー用語で言うといかに「マジカルモーメント(感動体験)」をつくれるか、を考え続けましたね。

●いつ頃から次のステップを考えていたんですか?
将来のことは常に考え続けていたんですけど、その時はいかに目の前の人を笑顔に幸せにできるかを考えていたし、こんなにも自分の存在を自分で確かめたり、自分がしたいと思ったことが相手の感動体験に変わることが嬉しくて。なにより自分がしたことで相手だけでなく“自分を幸せにできる”ことが嬉しくて。こういう感情になれることを仕事にしたいと考えるようになり、それが一体何なのかを探し始めました。


自分はどうしたいか、どうありたいかを問われ続け、常に自分が何者かでいなければならない状況だったあったからこそ、カメラマンになると決意した。


●とても良い話です。
そんなときにたまたまフェイスブックで山川咲さん(※6)という存在を知り、『CRAZY WEDDING』という会社の存在も知って、当時掲げていた「Crazy or die.」というブランドメッセージがめちゃくちゃ刺さったんですよね。。ウェディング自体は学生時代にバイト経験があったということもあり馴染みがり、日本から来る友達に咲さんが出版している本を買ってきてもらい、入社を決意しました。

※6:『CRAZY WEDDING』ブランドマネジャー。「人生が変わるほどの結婚式」をブランドメッセージとして、ふたりの人生を表現するオーダーメイドのウェディングサービスを手掛ける。

●そういう出会いだったんですね。
同時期に旅をしたときに購入したカメラを用いて、それまでは撮られる側だった自分が周りの人たちを撮ることで、幸せな瞬間を残せるという楽しさを感じ始めて。ちょうどそんな時にSNSに出てきた『ラブグラフ』(※7)の写真を見て、帰国後は『CRAZY WEDDING』と『Lovegraph』になんらかの形で関わりたいと思ったんです。

※7:恋人との記念日や結婚の前撮り、お宮参りや七五三など、様々なシーンを日本全国のプロカメラマンが撮影する「出張撮影サービス」。

●帰国前から連絡を取り始めていたのでしょうか?
実は一つ上のとある先輩が『CRAZY WEDDING』が新たにオープンするオフィスのカフェのオープニングメンバーで。帰国した次の日にそのオフィスに遊びに行き、関わらせてほしいと直談判し、一週間後には本を売る側になっていました(笑)。

●すごい展開ですね。
同時に『ラブグラフアカデミー』というカメラを学ぶ講座に参加し、カメラも学び初めました。

●それぞれ実際に参加してみてどうでしたか。
今もそうですけど、『CRAZY WEDDING』は当時は本当にアグレッシブに新しい形の結婚式をつくろうと動いていたので、自分はどうしたいか、どうありたいか、を問われ続けて。ある種常に自分が何者かでいなければならない状況でもあったので、一旦カメラマンになると決意したのがその時だったんです。


カメラマンとしての色々な人と出会う中で、繋がりから仕事をいただくことが多くなり、今度は自身がカメラを通じて出会った人々を繋げる会をつくりたいと思うように。


●それがカメラマンだったんですね。
その理由は大きく二つあって、一つはディズニーで得た笑顔と幸せを自分の大切な人に届けられる仕事、ということ。結婚式から始まるその人の幸せの瞬間を切り取り続ける人生を歩んでいきたい。もう一つは当時21歳の自分として、まだまだ色々な人と出会い、知らない世界を知りたい、それを仕事として叶えられるのがカメラマンだと考えたんです。

●本格的にカメラマンとしての活動を始めたのはいつなのでしょうか?
結果的に『Lovegraph』は半年間で卒業しました。今自分がいる環境でできることが無いのか、と当時ずっと見守ってくれていたCRAZYの社員の方に諭され、すぐさまローンでフルサイズカメラを購入し、勝手に『CRAZY WEDDING』の社員さんの働く姿を撮り始めたのがはじまりなんです。他にも周りの友人の撮影やお世話になった先輩たちに連絡をして、写真を撮らせてもらうようになりました。

●『CRAZY WEDDING』で本格的に写真を撮り始めたのはいつ頃から?
入社して1年半後の23歳の時です。『CRAZY WEDDING』の社内にカメラマンがいる訳ではないので、個人で業務委託という形で仕事を受けていました。あるときに咲さんと新宿のカフェでランチをしたときに「彩聖はちょっと写真が上手いだけだよねー」と言われて(笑)。そういうことを言ってくれる師匠的な存在ががいなかったので、そこから姉弟の関係がスタートし定期的に写真を見てもらうようになりました。

●その後はどういう割合で『CRAZY WEDDING』の仕事とフォトグラファーとしての仕事を?
ウェディングフォトグラファーとして、個人のウェディングの撮影が半分くらいと『CRAZY WEDDING』の撮影が半分くらいで生活していけるようになったのがカメラマンを初めて3年くらいの頃です。それからはカメラマンとして色々な人と出会う中で、繋がりから仕事をいただくことが多くなり、今度は自身がカメラを通じて出会った人々を繋げる会をつくりたいと思うようになり始めたんです。


自分の大好きな人たちが集まり、アーティストが自由に表現できる、そんなシーシャ屋さんを作りたいと思い始めた。


●人との出会いや繋がりが仕事に変わり始めたんですね。
カメラマンという職業柄、色んな人や表現者と出会うことが非常に多く、自分はカメラマンだからそういう機会が多い訳だけど、そうでない人はそもそも新たな人と出会う機会が多くはないんじゃないかと。そこで始めたのが『彩聖会』という名前で(笑)。自分が出会った人同士を繋ぐことを目的に、15人前後を呼んで一緒にご飯を食べるという回を毎月1年間開催してました。回を重ねる毎に、どんどん人を繋げるということへの想いが増していき、より日常的なそうした場をつくりたいと思い開業したのが、この『chotto』(※8)なんです。

※8:ノンニコチンのシーシャ・ノンアルコールのドリンクメニューを多数取り揃え、クリーンで心地よいシーシャ体験を提供する下北沢線路跡地一角のシーシャカフェ。

●シーシャを選んだ理由は?
もともとお酒も飲めないし煙草も吸わないということがあり、ある時にシーシャ屋さんを訪れたときに、フラットなコミュニケーション量が多い接客業だなーと感じて。コロナ下に渋谷のとあるシーシャ屋さんで身内の誕生日会を開催して、その時の経験が幸せ過ぎたんです。その経験から、自分の大好きな人たちが集まり、アーティストが自由に表現できる、そんなシーシャ屋さんを作りたいと思い始めた矢先、いまも共同代表を務める『いわしくらぶ』(※9)という水道橋にあるシーシャカフェの常連のメンバーと出会い、一緒に会社を作らないかと話したのが始まりなんです。

※9:水道橋にあるシーシャカフェ。シーシャの煙を楽しみながら、自分一人と向き合える時間を、思索を深める機会を提供してくれる。

●実際に『場』を作るにあたり、どのような想いを持ちながら準備されたのですか?
自分の中で温め続けてきていたコンセプトや想いを尊重してくれて、半年という非常に短い期間で空間を考え形にしたんですけど、この場所は「ちょっと立ち止まって、半歩踏み出す機会を下北沢から提供していきたい」という想いで運営しています。


自分自身がなりたい人との関わり方や、様々な人の日常の暮らしに触れる、という目的をもって、北欧、アメリカ、ヨーロッパへ旅に出る。


●「人の人生に携わる」ということが一貫しているように感じます。
そうですね。場所をつくるのも、イベントをつくるのも、写真を撮ることも、“誰かの人生に対して生きる糧になるような機会”を届けていきたいということなんです。

●なるほど。これから実現したいことはありますか?
学生時代に経験したインターンの合格体験や、ディズニーランドで感じたほどの感動体験を、実はカメラマンを始めてからのこの7年間で自分自身が作れていないと感じていて。昨年末に開催された星野道夫さん(※10)とharuka nakamuraさん(※11)のコラボライブの際に強く想ったんです。そのときから自分自身の中での冒険の少なさや写真を取ることの動機の再リサーチをしたい、と強く思うようになり、今年は世界中の街へ冒険をしに行こうと考えています。

※10:1952年、千葉県市川市生まれ。日本の写真家、探検家、詩人。 アラスカの野生動物、自然、人々の撮影や、厳しい自然の中で動物が生きる姿、人間の生活、命の尊さを綴ったエッセイを執筆。
※11:1982年、青森県生まれ。音楽家。少年期に鍵盤、ギターをほぼ独学で学び、2006年より本格的に活動開始。暮れる日々のサウンドトラックのようにアコースティックな音色を紡ぎ出す。

●どちらへ行かれる予定なんでしょうか?
自分自身がなりたい人との関わり方や、様々な人やまちの暮らしに触れる、という目的のもと、北欧、アメリカ、ヨーロッパに行く予定です。


人にGIVEし続けることが自分の人生を豊かにしていく。それをすることで自分の徳が積まれたり、運が良くなるんじゃないかなと思う。


●“人との関わり方を見つける旅”というのは面白いですね。
実は自分にとっての心地よい人との関わり方を尾道市の瀬戸田で見出せそうなんです。今年に入り既に5回も訪れているんですけど、裸になって一緒にサウナに入って、ご飯を食べてスナックに行って、アイスを食べて寝る、みたいな。それが本当に丁度良くて。ここで生まれる「初めまして」を増やしたいし、過ごす時間を増やしたい。なにより自分の周りの人にも体験して欲しいという想いで、この町に場所を作りたいと考えています。

●一体それがどういう場所になるのか非常に楽しみです。そろそろ最後の質問に移りますが、これまで生きてきた人生の学びは何でしょうか?
人にGIVEし続けることが自分の人生を豊かにしていくということ。それをすることで自分の徳が積まれたり、運が良くなるんじゃないかなと思っています。

●最後に、将来の夢を教えてください。
物理的でも概念的でもいいんだけど、みんなそれぞれが自分らしくいれる村をつくること。みんなで子供を育てるとか、みんなが程よい距離感を保てるとか、ひとと人の関わり方をみんなで気持ちいいと思える村をいつか作りたい。


Profile:小澤 彩聖 Ayato Ozawa

東京を拠点に写真家として活動しながら、生きる糧になるような機会、場所、瞬間を届けています。
飾られていくプロデュースではなく、ハレとケでいったら、ケ。つまり日常の中にある一筋の光のようなものを残していく。世の中を切りとる視点が最大の提供価値。

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Text : Gaku Sato
Interview : Gaku Sato

2023.6.12