CHAPTER vol.28【EAT】

三浦 思聞 (27)

Ukiyo サービスバーテンダー

仕事でもあるし、生活そのものでもあって、遊びでもある。だから苦じゃないし、いま“スパイラル”のなかに入ったから、そこに時間を使いたい。そこにおいては、お給料とかそういうバランスの話ではないし、ブラック/ホワイトなんていう社会的な判断の話でもない。いまここで働くことがただただ楽しくて、高校時代に剣道だけをしていたときと同じように、ほかのことはまったく入ってこない。

CHAPTER

今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を

CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地について教えてください。
福井県坂井市の三国町です。小さな町なのでみんな知り合い同士のような関係ですが、海沿いの方は、観光地としてのにぎわいがあったりもします。

●幼少期、もっとも記憶に残っていることは?
小学生の頃から剣道をやっていました。また、学級委員長や生徒会長、剣道部では部長、道場ではキャプテンをやったり、そうした役を買って出ることが多かったです。

●それは、自分から意識的にですか? その理由は?
自分からでもありますが、あとから考えるとそうでもない部分も。たとえば生徒会長をやっていると、市の発表会に出たり、教育委員会のひとたちと知り合ったりします。それがきっかけでイギリスへの交換留学も決まったりとか。そうして地元のなかにいろんなつながりができて、それを渡り歩いているような感覚がありました。どこか、その流れを止めたくない気持ちもありましたね。一旦辞めたら、一気にぜんぶが遮断されてしまうような気がして。

●一種の強迫観念のような?
最初は、まわりの期待に応えようと頑張っていました。頑張ると成果が出て、また次の期待に……というスパイラルができて。失敗したくなかったんです。もちろん、続けることは苦じゃなくて、楽しかったのですが。


最初は小さい道場で一番になって、次は県で一番に、その次は全国へ、と目標が変わるたびに、自分の考えも変わっていって。そうしたスパイラルのなかで、もっと自分の世界を広げたいと思うようになった。


●大人びた感覚のように聞こえますが、小中学生の頃の話ですよね?
小5から中3にかけてくらいの話ですね。実家がお寺で、長男だったのも関係しているかもしれません。「継がなきゃ」みたいな使命感は、わりと小さい頃から持っていて。学校の先生のひとりが、教師をしながらお寺をやっていたので、自分もこういう風に生きていくのかなってなんとなくイメージもできて。地方なので、「公務員になれば安定」っていう思想のひともまわりに多くて、自分もそうやって生きていけば安定的だな、とぼんやりと思ったりしてはいました。

●ではその頃は、外の世界へ飛び出していくより、地元で生きていくことを考えていた?
それが、さっき話したようなスパイラルによって、どんどん自分の世界が広がっていって。最初は小さい道場で一番になって、次は県で一番に、その次は全国へ、と目標が変わるたびに、自分の考えも変わっていって。もっと世界を広げたいと思うようになりました。小学生のときには全国大会へ出たので、すると中学も強豪校に進む選択が見えてきて。高校進学のときも同じように、「どの高校へ行くのが全国大会への近道なのか」とか、そういうふうに考えていました。

●剣道以外のことにおいても、同じように考えていましたか?
そうですね。父親からも、いまのうちにいろんな世界を見ておいた方がいいと言われ、のちにイギリスへの交換留学に送り出してもらいました。父はひとりっ子で、実家を継ぐことに反発したタイプだったので、自分の子どもたちにはそうさせたくない思いもあったみたいです。あとは、地元で仲のよかったお兄ちゃんの存在。当時大学生だったのですが、バックパッカーをしていて、彼からポートランドの話を聞いたり、東京や関西の話を聞いたりして、福井以外の場所への憧れを強くしていきました。


小学校のときの剣道の先生は、「一事が万事」とよく言っていた。トイレの紙が少なくなったら替えておく。会場ではスリッパを揃える。テストはきちんと見直す。そうした細部への気配りや心遣いが、すべてにつながってくることを教えてくれた。一方、高校時代の監督は、侍のようなひとだった。小柄でも威圧感が半端なくて、背中に鬼がいた。でも、愛はあった。


●さまざまな面で、新しい世界への渇望があったと。高校進学は、剣道を軸に決めたのでしょうか?
県で2番目の進学校に受験で入ろうと思ったんです。そこはいわゆる“青春高校”なんですよ。学校終わってマック食べるとか、彼女つくって花火大会に行くとか、文化祭を本気でやるとか、そういうことができる学校。県内のいくつかの私学からは、剣道でオファーをもらっていたのですが、ぜんぶ蹴って受験で入るのが格好いいな、とも考えていて。ただ剣道については、中学のときは県大会で1回勝ったきりだったんです。やり切れてないんじゃないかって、悔いがあって。それで最終的に、福井工業大学附属福井高校へ進むことに。

●どんな学校でしたか?
スポーツの名門校です。野球部は甲子園に出たり、柔道部には世界チャンピオンがいたりするような。入ったのはスポーツ特進クラスでしたが、まわりは全国大会ベスト8を目指しているような生徒たちばかりで。半分以上は県外から集まっていて、個性が強くて、動物園みたいなクラスでした。

●剣道部についてはどうでしたか?
監督が、鬼のようなひとで。武道ってけっこうコンタクトもあるし、高校からは突きも有りなので、練習中に絞め落とされるなんてのも当たり前の世界で。監督に稽古を申し込むときは、足が震えるんですよ。でも、その経験がいまでも自分の核にあって、比較的怖いものがなくなりました。のちに大学で就職活動するときも、みんなが「面接で緊張する」みたいな話をしているのを聞いて、本当に意味がわからなかったくらい。監督に稽古をお願いすることに比べたらぜんぜん怖くないなって。

●精神性みたいなものを鍛えられたということでしょうか。具体的にはどういったところで鍛えられた実感がありますか?
たとえば、小学校のときの剣道の先生は、「一事が万事」ということをよく言うひとでした。トイレの紙が少なくなったら替えておくとか、みんなが使うような会場ではスリッパを揃えるとか、テストはきちんと見直すとか。そうした細部への気配りや心遣いが、すべてにつながってくることを教えてくれました。逆に、高校のその監督は、気持ちをジャンル分けしないというか。「勝ちたくないのか?」「もっと勝ちに執着しろ」みたいなパワー系。侍みたいなひとで、何も教えてくれないんですけど、だからそのまま入ってくるというか。実際、たたずまいも侍みたいでした。眉毛が太くて、ひとを刺せそうなくらい鋭いんです。小柄なのに、漫画の「刃牙」みたいに威圧感が半端なくて。背中に鬼がいました。本当に怖くて、でも、愛はあったんですよね。いまでも地元へ帰ると、監督の家に僕ら世代の卒業生で集まって一緒に飲んだりしています。


結局、インターハイには出られず、何のための3年間だったんだろうと燃え尽きたところもあった。時間が止まっていたような気がして、人生でもっとも苦しい時期だった。それもきっと、なにごとにも“使命感”で取り組んでいたところがあったからだと思う。


●どこか、その監督のことを神格化していたようにも聞こえますね。
そうかもしれません。監督が怖いから、怒られるから、やらなきゃ、みたいな。自分の意思じゃなかったんだろうと思います。結局、インターハイには出られずじまいで、何のための3年間だったんだろうと燃え尽きたところもあって。時間が止まっちゃってたような気がして、そのときは一番苦しかったですね。それもきっと、使命感でやっていたところがあったからだと思います。

●少し危うい関係でありながらも、それでも当人からすると確実に、人間的な成長に多分に寄与しているところがあって。世間一般の基準には、けっして当てはめられないというか。
その監督に言われてすごく響いたのは、「本当に馬鹿になれないと勝てない」みたいなこと。たぶん、なにごとも本気でやれってことだと思うんですけど、それはただ言葉が鋭いだけで、小学校の先生が言っていた「一事が万事」に近いことなんじゃないかと思っています。

●3年間剣道に打ち込み、燃え尽きて、その後は大学へ進学したのですか?
1年間浪人して、明治大学へ入りました。インターハイに出られずに夏が終わったとき、久しぶりに会った友達が、「関東のでっかい私大とか国公立を受けるんだよね」と言っていて。それで、そういえばと、“青春高校”のことを思い出したんです。今度こそ、そういう基準で学校を選んでみようって。

●なかば使命感で動いていたところから、今度は自分がやりたいことのために時間を使う選択をしようと。
その頃には就職のことも考えはじめていたと思います。青春系の高校へ進んでいた地元の友達たちが、その先に見据えているものの話とか、海外に行きたいんだよね、みたいな話を聞いて。僕も中学時代にいろんなコミュニティーに所属したり、海外へ行ったり、そうしたことが楽しかった。それを今後もやっていきたいと思ったので、じゃあ勉強して進学しようと。


小学時代に経験したあの連鎖に、もう一度自分を入れたいという感覚に近かった。どんどん期待してもらって、目標を立ててクリアして……。仙台のEchoesを卒業して、一周回ってまた東京に戻ってきたときは、「またあのスパイラルに入ったな」と感じられた。


●上京してからの大学生活について聞かせてください。
まったく地元にない価値観を持つひとたちに出会いました。帰国子女、音楽が好きなひと、洋服が好きなひと。自分はこれですって言えるようなひとが、同世代にこんなにいるんだって、すごく面白かったですね。だから、基本的にはずっと遊んでいました。いろんなひとと会って、飲みに行って。同じ大学内よりも、他の大学の学生とか、クラブ界隈のひととか、美容師とか、違うジャンルの友達がたくさんできました。

●それまで地元で触れてこなかった価値観やアイデンティティを一気に吸収するような大学生活のはじまりだったわけですね。それによって得られたことも多かった?
違う価値観のひとと出会って、話して、いろんな考え方を知りました。最初はすべてに感動して、「このひとってすごいひとなんだ」とかって思っていたんですが、途中からは、「こういうひともいるんだな」くらいに思えるように。自我というか、「でも、自分はあくまでこっち側だな」とかって、冷静に見られるようになったというか。

●あくまでひとはひと、と自分がゆるがなくなってきた。そんななか、三浦さんはどんなことを大切にしようとしていましたか?
「楽しいことだったらいいんじゃない?」っていうようなスタンスでした。ラクーア(※1)でロウリュのアルバイトをはじめたんですが、その理由も、よく飲む仲のいい友達に、「ラクだし温泉入れるよ」って言われたから。いいじゃんって。そういうバカバカしい楽しさとか、男のノリみたいなのがいいなと思っていた。大学では、The Youthの代表になる岳くん(佐藤岳歩)とも出会って、のちに内定先を辞退してその一員に加わることになるのですが、それも、そっちの方が面白そうだったから。

※1:東京・後楽園、東京ドームに併設されたスパ施設を中心とした水がテーマの総合アミューズメント施設

●それまで自分の意思で動いたとはっきり思えなかっただけに、“楽しそうなこと”に進路が向いたのかもしれませんね。聞いていて、たんに享楽主義的な選択ではないようにも思いますが、“楽しさ”に吸い寄せられた理由みたいなものはありましたか?
楽しそうっていうなかでも、いま自分に必要かどうかは意識していました。それこそ、小学校で生徒会長をやっていた頃の、流れを止めることへの強迫観念の話じゃないですけど、その連鎖にもう一度自分を入れたいという感覚に近い気がします。どんどん期待してもらって、目標を立ててクリアして……。そのスパイラルにもう一度入りたかった。のちに仙台のEchoes(※2)を卒業して、一周回ってまた東京に戻ってきたときは、「またあのスパイラルに入ったな」って感じがしました。

※2:宮城県仙台市にあるカフェレストラン。朝昼夜と時間帯とともに景色が変わり続け、バリスタが丁寧に入れたスペシャリティコーヒーや東北地方の食材を使った料理、ワインを楽しみながら自由に時間を過ごすことのできるローカルラウンジ。


仕事でもあるし、生活そのものでもあって、遊びでもある。だから苦じゃないし、いま“スパイラル”のなかに入ったから、そこに時間を使いたい。そこにおいては、お給料とかそういうバランスの話ではないし、ブラック/ホワイトなんていう社会的な判断の話でもない。いまここで働くことがただただ楽しくて、高校時代に剣道だけをしていたときと同じように、ほかのことはまったく入ってこない。


●スパイラルに入ることで自分の成長につながることが経験的にわかっているからこそ、“楽しさ”を選ぶ嗅覚を信じたと。
東京に戻ってきて、ワインでやっていく、飲食でやっていく、っていうスタートラインに立ったとき、東京にいる同世代たちは、すでにどんどん海外へ行ったり、新しいステップに自分で進んでいたりして。それが輝いて見えたので、自分もそれを超えていくために、まずは目標を立てて、それをクリアしながら毎日を過ごしていきたいと思いました。Echoesで日常的におこなっていた仕込みや掃除、SNSの発信なども、「あれってこういうことだったんだ」ってつながって見えるようになって。Echoesのシェフや岳くんがやっていたことが線でつながるようにもなって。そうして一つひとつの行動が理由づけできると、自分の目標設定もしやすくなるし、次への一歩を出しやすくなる。いま、そうやって駆け上がっている感覚です。

●その連鎖によって悦びやカタルシスを得るというようなことも、さんざん学生の頃に経験してきたからこそ、すぐにそういうモードに入れたのかもしれませんね。
東京に帰ってきて、もっと遊ぶ気だったし、久々に会う友達たちが海でキャンプするなら参加するつもりでもいました。女の子とも遊びたいな、とか。いろいろあったんですけど、いま自分がやっていることだけでまったく楽しいというか。ほかのことが、いま入ってこないんです。高校時代に剣道だけをしていたときと、いまUkiyo(※3)で働くことが楽しくてそれだけをしているのと、変わらない感じがします。

※3:世界各国で研鑽を積んだシェフが作るコース料理とドリンクペアリングを軸に、バータイムには、ナチュラルワインと遊び心のあるアラカルト料理を。落ち着いた空間の中、芯のある料理とサービスを提供する。

●店の状況や環境も、そうした深いコミットメントに拍車をかけるものでしたか?
いま先輩がふたりいて、彼らから学びたい気持ちがとても強いんです。飲食店なので少なからず体育会系みたいなところはあって、でもそれはまったく嫌じゃないし、むしろお願いしますみたいなことを言えるのは、やっぱり高校の経験が効いているんでしょうね。それに、なにかあっても心にグサッと刺さらない強さを持てているからこそ、レストランみたいなところに飛び込むこともできたんだと思います。仕事でもあるし、生活そのものでもあって、遊びでもあって。だから苦じゃないし、いまスパイラルのなかに入ったから、そこに時間を使いたい。お店に来てくれる友達もいて、話をすると「過酷だね……」なんて言われることもありますが、お給料とかそういうバランスの話ではないし、ブラック/ホワイトとかっていう社会的な判断の話でもない。ここのために時間を使いたいから。

●世間的にはきっと、高校で経験したようなことがどんどん“悪”とされ、なくなっていくことと思います。でも、それを経験した最後の世代かもしれない三浦さんが、いまなによりも、それがあってこそ自己形成されたと、はっきりと感じている。その経験があったからこそ、いま大人になって飛び込めた世界があるし、できることがあると。
止まっていたと感じていた3年間が、じわじわといまにつながっている感覚があります。じつは止まっていたわけじゃなくて、そこで脚力が養われていたのかもしれません。母親がよく、「人生で起こることに無駄なことはない」って言うんです。僕は嘘だと思っていました。高校のとき、無駄だったなって。でも、過去のぜんぶがまわりまわっていまにつながってくることを、やっと実感しています。


Profile:三浦 思聞 Shimon Miura

1996年、福井県生まれ
大学時代にThe Youthの創業メンバーとして立ち上げに携わり、Echoesの開業を機に仙台へ移住。
2023年6月からは代々木上原にオープンしたRestaurant Ukiyoの立ち上げメンバーとしてサービスに従事。
趣味は散歩と読書、お酒を飲むこと、温泉。

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Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : mitsuharu yamamura(BOOKLUCK)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)

2023.1.16