CHAPTER vol.29【EAT】

齋藤 朗人 (29)

サワードウベイカー

「Always try to be the best version of yourself」という言葉に救われた。それに、サワードウはコントロールできない。しっかり寄り添いながら、最善の状態を引き出すことが必要。だから急がないし、自然と寛大になれるというか。

CHAPTER

今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を

CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地について教えてください。
熊本で生まれ育ちました。

●どんな幼少期を送りましたか
物心ついたときから、サッカーばかりしていました。兄が所属していたクラブチームに小学校4年の頃に入って、それから中学3年まで同じクラブチームでプレイしていました。『キャプテン翼』を読んでからは、ボールと友達にならなきゃって、毎日サッカーボールを蹴りながら登校していました(笑) サッカーがすべてというか。ただただ、ボールを蹴りたいという気持ちでした。

●サッカー以外に、学校の友達と遊んだり勉強したりという記憶は?
休みの日も友達と学校へ行ってサッカーをしていました。夏休みにはクラブチームの遠征があったりして、サッカー以外で遊んだ記憶はほとんどありませんね。ただ、クラブチームは、いろんなところからメンバーが集まっていたので、上手いひとと自分の差を意識するようになったり、自分の持っていないものを見て高められたり、徐々に、もっと外の世界を見たいと思うようにもなりました。

●ただただ楽しいという気持ちから、少しずつ違った思いが芽生えてきたと。
遠征のとき監督がバスで海外のゴールシーンをひたすら流すので、小学6年生の頃には、「世界で通用するサッカー選手になる」ことが自然と目標に。そして中学校からは、試合に勝てば親が喜んでくれる、というのもモチベーションで。親に恩返ししているような気持ちでした。

●恩を感じていた?
小さい頃から、ずっと自分のやりたいことをサポートしてくれていたので。スパイクひとつにも、遠征にもお金がかかる。だから、応援してくれる両親や周りの大人たちが喜んでくれるように、頑張っていたところもあります。


長時間打ち込む、みたいなことは得意だった。サッカーみたいにゴールがあったから、そこに向けてどれくらい勉強すれば受かるか、どれだけ努力すれば到達するか、肌感でわかった。


●夢中の気持ちと、上手くなって世界で活躍したい気持ち、そして両親への恩返し。徐々に複雑に混ざり合ってきたわけですね。
中学からはキャプテンを務めることが多くなってきて、責任感を感じるようにもなりました。キャプテンなのに試合に出られない時期も続いて、「チームに貢献できていない」って焦りを感じたりもして。実際中学のときは、県大会での優勝も見えていながら、選手権止まりで全国には届かなかったんです。だから、高校に入ってからは、自分の活躍で周りに恩返ししたいっていう気持ちが、ほぼ100%くらいになっていたように思います。

●高校もサッカーを基準に選んだのですか?
サッカーで進学する選択肢もありました。でも、親に相談したら、「将来につながるような高校に行くのもいいんじゃない?」と。それで、私立のなかで一番勉強ができて、サッカーも強い高校を目指すことにしました。それまで勉強はまったくしてこなかったので、塾に通いはじめて最後の2、3ヶ月にぎゅっと詰め込んで、それでなんとか合格することができたんです。

●サッカーから勉強にシフトしてみて、どうでしたか?
長時間打ち込む、みたいなのは得意だったんです。サッカーみたいにゴールがあったので、そこに向けてどれくらい勉強すれば受かるか、っていうのも測りやすかった。どれだけ努力すればそこに到達するか、肌感でわかったというか。自分に残された期間は何ヶ月で、そのあいだ○点伸ばすためには1日でここまでやる必要がある、とか。目指す点数を取れたときの喜びも味わいました。そうして、最初は評定で無理だと言われていた高校に入ることができた。その集中力や我慢強さは、サッカーで培ったものかもしれません。

●逆にいうと、サッカーにおいても、目標に向かって戦略を立てたり対策を取ったりするのが得意だった?
そこが僕の一番の強みだったと思います。だれがどう動いて、どこを攻めれば勝てる、っていうようなことは常に考えていました。だから基本的に、右サイドからひたすら声を出し続けていた。自分が活躍するより、チームで勝つ、みたいなことが楽しかったですね。


仲間からパスがきて、それをトラップして、パスを出す。それだけでうれしくて。一周回って、楽しもうって、小学生の頃夢中でボールを蹴っていたときのような気持ちになれたから、サッカーを嫌いにならずに済んだ。引退するときも、サッカーへの未練はなかった。「最後まで続けた」と言っていいなと思った。


●高校に入ってからのことについて聞かせてください。
サッカー部への入部希望者は40人近くいて、とくに推薦で入ってきた10人くらいは、全員知った顔ぶれでした。「こんなにすごいやつらがいるなら、絶対1位を取れる」って、入学式の日に直感しました。でも、最初の新人生大会を1週間後に控えて練習していたとき、スライディングを受けて、人生で感じたことのない痛みが右足首を襲って。それで、靭帯を2本断裂してしまいました。すぐに手術を受けましたが、足を動かすだけでも半年、その後のリハビリもあって、1年くらいはプレイできないことがわかって……。頭が真っ白でした。ただ、2年生の夏くらいには戻ることができ、トップチームの練習にも少しずつ出られるような体に戻って。そうしていると今度は、その夏の練習試合でぬかるみに足を取られて左足を捻ってしまったんです。同じ痛みだったので直感はしていましたが、病院で診てもらうと、やっぱり靭帯が2本切れていて……。

●当時、どんなことを考えていましたか?
両親が寄り添ってくれたんです。母は、「私もトレーニングしたかったから」と言って一緒にジムに通ってくれたりして。それで頑張ったんですけど、どうしても体が戻らなくて。両親に恩返しするどころか、結局、もらっていることのほうが多いし。じゃあ、これからどうしたら恩返しできるかと考えたら、父が大学で英語を教える教授だったのもあって、英語を喋れるようになったら、両親もすこしは誇らしく思ってくれるんじゃないかって。それで、勉強に集中することにしたんです。

●では、サッカー人生には一旦終止符を打つことに決めて。
最終的には、在校中にギリギリ復帰することができて、最後の数ヶ月間はボールを蹴ることができました。その時間は、自分のなかでものすごくうれしいものでしたね。そのとき、両親にもピッチに立つ姿を見せられましたし。

●怪我をする前と後では、サッカーに対する気持ちも違っていましたか?
仲間からパスがきて、それをトラップして、パスを出す。それだけでうれしくて。一周回って、楽しもうって、小学生の頃夢中でボールを蹴っていたときのような気持ちになれたので、サッカーを嫌いにならずに済みました。当時のチームメンバーも、昔から知っているような顔ぶればかりで、僕のせいで走らされたりしてもだれひとり文句を言ったりしなかった。戻ったときもみんな喜んでくれて、本当に、彼らに救われたなと思います。だから、引退するとき、サッカーへの未練はなかったですね。「最後まで続けた」と言っていいなと思いました。


僕は情熱がないと動けないタイプだから、まず、そもそもどうして大学へ行くんだろうということを考えた。周りの大人たちに相談しながら、勉強したい分野や小さな頃やりたかったことはないかと振り返ったとき、小学6年生の頃に「世界で通用するサッカー選手になる」のが夢だったことを思い出した。


●本当に色々なことがあって、それでもなお、やり切ったと言えたと。重みがありますね。そこから大学へ?
僕は情熱がないと動けないタイプなので、まず、そもそもどうして大学へ行くんだろうってところから考えました。母が料理関係の仕事をしていて、昔から家で料理やお菓子作りを手伝うのが好きだったので、料理の専門学校へ行こうかとも。でも、周りの大人たちに相談しながら、なにかもっと勉強したい分野や小さな頃やりたかったことはないかと振り返ったとき、小学6年生の頃に「世界で通用するサッカー選手になる」のが夢だったことを思い出して。それで、英語を話せるようになったら自分を誇らしく思えるんじゃないかと、大学選びの基準になり、世界80カ国以上から学生が集まるAPU(※1)という大学に入ったんです。

※1:立命館アジア太平洋大学(APU)。2000年4月に伝統と歴史を持つ学校法人立命館が設置した、日本初の本格的な国際大学。

●大学へ進む目的のひとつが英語の習得だったというわけですね。
入学してからは、韓国へ交換留学したりしながら夏頃まで過ごしていましたが、ちょうど帰国した頃、大学のフットサルチームに誘われました。小学時代に所属していたクラブチームの先輩が偶然そこにいて。それでとりあえず練習へ行って久々にボールを蹴ると、やっぱりめちゃくちゃ楽しいんですよね。しかも、全国を目指せるくらいのチームだったんです。それで、英語も喋れるようになってフットサルで全国に行けば、自分の心が救われるような気がして、またサッカー漬けの日々に。でも、その年の九州大会の準決勝戦 で、右足首をぐりっと捻ってしまって……。チームとしては全国大会に出場することができたのですが、僕はベンチメンバーで試合には出られませんでした。煮え切らない思いもありつつ、ただ英語という目標がひとつあったので、そのあとはまた留学を目指して英語に専念することに。

●その後の留学はどちらへ?
結局ワーキングホリデーの制度を利用して、オーストラリアのアデレードという街へ行きました。日本人が一番少ないと言われる場所だったのが決め手でした。誰にも頼れない環境に身を置いて1年間過ごせば、きっと成長できる気がして。さらに、1ヶ月分の家賃だけを持って、すぐに仕事を見つけないと生活できない状況に自分を追い込み、日本で取れるかぎりの英語の資格と、飲食店で働くための衛生の資格を片っ端から取って、リクルート用のレジュメを40枚くらい刷って持って行きました。最初の1ヶ月間は語学学校へ行くことにして、そこでコミュニティーを最大限に広げることに。向こうについてから、すぐにスマホと銀行口座などを作って、仕事のアプライに最低限必要なものは全て揃えました。そうして街中を歩き回りながらレジュメを配って、1ヶ月で仕事に就くことができたんです。

●サッカーや高校受験のときのように、目標設定とそこに向かうための道筋がはっきり明確ですね。
ただ、それからが大変でした。生活のために、高級日本食レストランと病院のなかにあるカフェテリアというふたつの仕事をフルタイムで掛け持ったのですが、とくにレストランの方は、仕事のクオリティをかなり高く求められました。でも、英語のレベルさえ、僕は当時明らかに足りていなくて……。なんとかがむしゃらに頑張ってはみましたが、あるときマネージャーから「給料にあたいする仕事ができてないの、自分でもわかるよね」と言われてしまって。「でも、勉強してるのもわかるから」とも言われ、やり切りたい一心でとにかく勉強しながら働くことができましたが、その頃はもうほとんど挫けそうでした。

●ほかに印象に残っていることはありますか?
最後の2週間は、両親と一緒に過ごすことができたんです 。1年間オーストラリアでやってきたことにはある程度自信もついていたし、実際、のちに受けたTOEICも400点くらいアップしていました 。 だから、最後に両親を呼んで英語で現地を案内して回ったんです。


「苦しい思いするひとの立場には、同じ苦しみを経験しないと立てない」と母から言われ、肩の荷が降りて少しずつポジティブになれた。徐々にまた海外や東京へ行くようになって、やっぱりそれでも一番情熱が湧くのは食の分野だった。毎日、食べ物のことを考えていた。


●大学へ進んだ目的を果たすことができ、日本へ帰ってきてからは?
大学4年生で、そろそろ就活をはじめようという時期、フットサルチームのメンバーがどんどん減っていて、存続の危機だと知らされたんです。それで、ほっとけなくなっちゃって。大親友とふたりで戻ったのですが、結果的に、ちょっとずつひとが戻ってきて、県大会で優勝して九州大会へ行くことに。全国には届きませんでしたが、両親にも試合を観に来てもらって、後輩たちにバトンをつなぐこともできました。それからようやく就活に本腰を入れました。それまで大学で開発や環境学を学ぶなかで疑問に思うことが多かった“食”にかかわる仕事をしようと考え、外食産業を専門にする企業に入社しました。

●入社してからは、具体的にどんなことに力を入れましたか?
最初の1年間で、全国5店舗を次々に転勤しながらさまざまな業態を経験したり、新店の立ち上げなどを担当したり、休む間もなく働きました。店舗も非常に過酷な現場だったので、お客さまの幸せのためにまずは働くひとの幸せをと、離職率の改善に取り組みました。売上も如実に上がって結果を出すことができたのですが、その結果2店舗を掛け持つようになった頃、交通事故を起こしてしまって……。それで最初に浮かんだのが、「これでやっと休める」という気持ち。こんなのはおかしいって、そこでようやく気がついて。それで、フルリセットしようと決めて、1ヶ月間、インドのケララという場所で過ごすことにしたんです。川、田んぼ、山しかない場所で、これからどう生きていくかみたいなことをじっくりと考えた結果、改めて、食が好きだと思ったんです。現地でお世話になったお母さんが作る料理も好きだったし、言葉が通じなくても、食を交えれば笑顔になれる。ちょうどそのとき、Soup Stock Tokyoの遠山さん(※2)の『スープで、いきます』という著書を読みました。「働くひとが幸せじゃないといいサービスはできない」って、僕が考えていたようなことがそこには書かれてあって。「世の中の体温を上げる」という企業理念にも衝撃を受けました。それで、帰国してからはそこで働いてみることに。

※2:実業家。スープ専門店「スープストックトーキョー」「トーキョールー」、ネクタイブランド「giraffe」、全く新しいコンセプトのリサイクルショップ「PASS THE BATON」を展開する株式会社スマイルズの代表取締役社長。

●企業に属しながらも、齋藤さん自身の目標や目指す将来の姿などはありましたか?
その頃は、29歳までに起業したいと考えていました。Soup Stock Tokyoでも、そのために何が必要かをつねに考えながら、毎月目標を立ててクリアしていきました。入社から半年後くらいに、新規事業を立ち上げる話を耳にして、そこに志願しました。蓋を開けてみると、それがまた明らかに自分のキャパオーバーの仕事で。知らない分野が10くらいあって、それぞれ100分の1にも達していない、みたいな。それでもなんとか喰らい付いて、無事に立ち上げられたのですが、その後1ヶ月くらいで僕は動けなくなってしまって。体重が8キロ落ちて、耳鳴りも2ヶ月くらい止まらない状態でした。メンタルも完全に折れてしまって、ベッドから起き上がれない。それで一旦休職することに決め、熊本の実家で1年半くらい休むことに。

●どちらの企業でも、自分の能力の限界以上を引き出しながら実績も出せてしまうばかりに、気づかないうちに消耗し切ってしまった。当時、どんなことを考えていましたか?
母から、「苦しい思いするひとの立場には、同じ苦しみを経験しないと立てない。あなたはいまそのための経験をしていると思えばいい」と言われ、それで肩の荷が降りて、少しずつポジティブになれました。徐々に回復して海外や東京へ行くようになって、やっぱりそれでも一番情熱が湧くのは食の分野でした。毎日、食べ物のことを考えていました。


「Always try to be the best version of yourself」という言葉に救われた。それに、サワードウはコントロールできない。しっかり寄り添いながら、最善の状態を引き出すことが必要。だから急がないし、自然と寛大になれるというか。


●改めてそう思えた、具体的なきっかけはありますか?
お母さんが作るパンが昔から大好きだったことを思い出して、パン作りに興味が湧いたんです。一方で、世の中で売られているパンを眺めてみると、いろんな添加物が入っていたり、なぜこうなるんだろうと思うことがとても多かった。自分の大切なひとたちが安心して食べられる美味しいものを作りたいと思い、だったら一番ナチュラルな方法でパンを作って、かつ働いているひとが楽しそうな環境で働けばいいと、そうしてVANER(※3)に出合ったんです。“ひととしてどう働くか”など、僕と同じようなことを考えているひとたちがここにはいると感じて、サワードウと本格的に向き合うのは初めてでしたが、運よく拾っていただきました。その後VANERは解散してしまいましたが、そこで出会ったクリスティーナと、いまBROD(※4)で一緒に働いています。VANERとの出合いで、人生がひらけました。

※3:かつて谷根千エリアの古民家を改装した建物の一画にオープンしていたベーカリー。小麦から自家培養したサワードゥ、国産小麦を石臼挽きで使用したパンを焼く。
※4:BRODは広尾にあるデンマーク人のオーナーによる北欧スタイルのサワードウ100%ベーカリー。市販の酵母、添加物、化学強化剤は使用せず、北欧のパン作りの伝統とトレンドを応用して、栄養価が高く風味豊かなパンやお菓子づくりをおこなう。

●それまでのような、オーバーワークもしなくなりましたか?
あるとき、「Always try to be the best version of yourself」 という言葉を知って、それが救いになりました。それに、サワードウって本当にコントロールできないんですよ。しっかり寄り添いながら、最善の状態を引き出してあげることが必要。だから急がないし、自然と寛大になれるというか。

●サッカーのときに養われた集中力や目標にひた向きに突き進んでいく能力が、何度となく、怪我をしたり体調を崩したりという無理につながって、そのたび立ち止まってしまっていた。でも、いまようやく自分のペースに合った場所を見つけられたと。
29歳までに起業するという目標も、やっぱり自分ごとにできていなかったんですよね。体がダメでも心が元気なら、それでもやっていけるんですけど、情熱がなかった。いろいろあったけど、でもいまは、ここに立ててよかったと思える場所にいられています。心と体が、ようやく一緒になったような。


Profile:齋藤 朗人 Akito Saito

1993年生まれ、熊本県出身
在学中にアメリカとオーストラリア留学を経験し、以後食の分野で世界の人と関わりたいと飲食の世界へ

紆余曲折してVANERと出会い、サワードウベイカーの道へ。
現在はBRODでヘッドベイカーを務める。またhjem名義でポップアップ等の活動も行う。
好きな言葉は『全てのことに意味がある』。

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Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : mitsuharu yamamura(BOOKLUCK)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)

2024.2.27