CHAPTER vol.32【THINK】

平井喬 (24)

ブリューワー見習い

野菜は命の根源だし、それを育てるって、福祉的にもすごく尊い。種から育てて実が成って、それを食べて、自分のからだになっていく。だからせめて、自分が食べる分のお野菜くらいは、自分の畑でつくりたい。その距離感が掴めた気がする。

CHAPTER

今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を

CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地について教えてください。
沖縄県の、やちむんの里で有名な読谷村です。実家のまわりはさとうきび畑が一面で、海も歩いていける距離にあって、そこから見る夕陽がとても綺麗だったのを覚えています。

●幼少期のことでとくに記憶に残っていることはありますか?
海は、ずっと好きでしたね。まだ首が座っていない頃、海に浮かべたらスヤスヤ眠りはじめたとかで、根っから、水や海は好きだったみたいです。水泳も習っていて、泳ぎも得意でした。海はただ見に行くのも好きで、よく、飼っていたワンちゃんを連れて砂浜で散歩していました。

●そうした環境で過ごしながら、どんなことを考えていましたか?
自然だったり、人間以外のところも、今後ちゃんと守っていかないといけない。そんな意識が、自分を含め、沖縄のひとってけっこう強いと思います。自分の暮らしている環境や文化への愛着というか。そうしたものと自分がつねにつながっている感じがして。この春(2024年春)までは東京にいましたが、東京にいるあいだも、5日連続で公園へ行ってぼーっと過ごしたり、そういうことは多かったですね。つねに自然を求めていました。

●自然の近くにいるときの気持ちは?
無になります。僕は特性的に、ずっと考え事をしてしまったり、頭のなかで音や言葉がいつも流れちゃったりするんです。なので、日常生活で疲れちゃうことも。でも、公園や海へいくと、その考えるスピードが穏やかになる気がします。


自分は生まれ育ちは沖縄でも、血縁的なものはなくて。そのことに、ずっと苦しめられてきた。沖縄には「ないちゃー」っていう言葉があって、小さい頃から、「お前ないちゃーだろ」って言われて。ずっと居心地の悪さがあった。


●自然への愛着やつながりが強かった一方で、家族やまわりのひととのつながりはどうでしたか?
両親は東京出身で、自分が生まれる前に沖縄へ移住しました。だから、自分は生まれ育ちは沖縄でも、血縁的なものはなくて。そのことに、ずっと苦しめられました。沖縄には「ないちゃー」っていう言葉があって、小さい頃から、「お前ないちゃーだろ」って言われてきた。「平井」っていう苗字で、よそ者であることはすぐにバレるので。ずっと居心地の悪さがありました。

●そうした差別や偏見を受け、平井さん自身はどう対応してきましたか?
自分も自分で、空気を読むとか、ひとの気持ちを慮るみたいなことが苦手だったので、思春期の頃なんかはすごいツンツンしていて、正直、自分を守るのに必死でした。傷つけられたら傷つけ返すしかやりかたが見出せなくて、だから、傷つけたひともたくさんいるし、謝りたいひともいます。

●そうした居心地の悪さみたいなものは、いつ頃まで続いたのでしょうか?
中学卒業までですね。高校生活は楽しかった。読谷村の外のひとと学校生活を送るのも初めてだったので。自分は特進コースに通っていましたが、高校2、3年は持ち上がりだったし、もうひとつあった特進クラスともみんな仲がよくて。まぁ、高校になるとみんな落ち着きますよね。小中でうまくいってなかったひととも、ちゃんとしゃべれるようになったりとか。自分も変わったし、まわりも変わったんだと思います。


障害は個人のなかにあるのではなく、社会側にこそ障害がある。それを学んだとき、自分がそれまで感じてきた生きづらさとか、地域との摩擦みたいなものも、ちょっと腑に落ちた。


●将来何をするか、みたいなことも考えはじめていた時期ですか?
そうですね。ざっくりと、地域系のお仕事や観光に興味がありました。沖縄っていう土地で育ったのもあるし、父親がファシリテーターの仕事をしていた影響もあるだろうし、興味分野はずっとそのあたりでしたね。沖縄の観光のかたちとして、よそからひとがたくさん入ってきて、県外にお金が流れていく、みたいな問題があります。自分たちが小さい頃に、観光に力を入れはじめる流れができて、高校時代くらいに、問題がいろいろと出はじめていた。そうした意味でも気になる分野でした。

●平井さんの身近なところにも、そうした問題は顕在化していましたか?
顕著なのは、ゴミとか。一時期、ホテルでアルバイトをしていたのですが、目の前のビーチにゴミを捨てていく海外の観光客をよく見ていました。あとは渋滞の問題もそう。みんななにかしらに困っている、みたいな状況はあったかもしれません。それでいて、自分たちの暮らしが豊かになるわけではないし。なんなら、沖縄の相対的貧困家庭の割合は全国の2倍もあるわけで。それから、最終的にはなにかしら沖縄の力になることを目指して、東京の大学へ入ることに決めました。

●大学ではどんなことを学びましたか?
まちづくりを学べる学部に入りました。ただそこでは、まちづくりのほかに、福祉と心理も併せて学べるのが特徴で。最初に福祉の必修授業を受けたとき、障害の社会モデルというものについて教わって、それがすごく面白くて、印象的でした。障害は個人のなかにあるのではなく、社会側にこそ障害があって、そことうまくいかないときに初めて障害が発生する、というような考え方です。イソップ童話で、鶴と狐がお互いを家に招きあって、スープをご馳走する話がありますよね。狐は平たい器にスープを入れて鶴に意地悪するのですが、いま“障がい者”と呼ばれているひとたちも、狐の世界で生きる鶴かもしれない。それを学んだとき、自分がそれまで感じてきた生きづらさとか、地域との摩擦みたいなものも、ちょっと腑に落ちたんです。

●障害や福祉というものに対するイメージが、ひっくり返されたということでしょうか。
ひっくり返されたというより、そもそも、無関心で、無知でした。でも、それが差別や偏見のもとなんですよね。それから、知的障がい者と身体障がい者に関わるアルバイトを掛け持ちするのですが、そのなかで、知らない暮らしがどんどん見えてきて、原体験が積み重なっていった。興味分野が、福祉のほうへぐっとシフトしていきました。


福祉は、単にだれかの幸せを考えること。それは自分であってもいいし、目の前の友達でもいい。だから、特別なことじゃなく、僕もあなたも、福祉のひと。


●無関心、無知の状態から、急速に福祉への興味関心が高まった理由は何だと思いますか?
「福祉を勉強しているんです」とだれかに話したとき、「高齢者介護とかケアとか、今後の日本に重要だね」みたいに言われることがほとんどで、ずっとモヤモヤしていました。でも学んでいくうちにわかってきたのは、福祉は、単にだれかの幸せを考えることだということ。それは自分であってもいいし、目の前の友達でもいい。たとえばまわりにいる若い子たちのなかには、自分でフードイベントをやったり、プロダクトをつくったりしている子が多くて。「こういうシチュエーションで、誰々の幸せをつくりたい」「こんな空間を提供することで起きる作用って大事だよね」なんて考えてもいて、それも、福祉なんですよね。だから、特別なことじゃなく、僕もあなたも、福祉のひとなんです。

●だれもが当事者であるということですね。
一方で、たとえば能登半島の地震のとき、現地に赴いて行動を起こすひとたちがたくさんいました。もちろん尊く素晴らしいことですが、他人に深いひとって、自分と他者の境界が曖昧で、意外と自分のことを理解できていないことが多いように思うんです。そうすると、大災害や戦争に対して支援したいという思いやりの気持ちがあっても、飲み込まれてしまうし、かならず自分のほうへ返ってくるんです。自分のことを大切にしないと、相手のことも社会のことも大切にできないと思います。

●まずは自分自身も含めた身近な存在を大切にすることが、福祉だと。
大学を卒業してから、大学院に通いました。修士論文は、触法知的障がい者(法に触れる行為をしてしまった、あるいは、法に触れるような課題を持っている障がい者)の人生について、彼らの語りから明らかにしていく、という内容だったのですが、彼らの壮絶な人生を聞いたりしていると、いくら「大丈夫」と思っていても、どんどん引き摺り込まれたり、よくない精神健康状態になってしまったりします。だから、話を聞いたあとには、しっかりと自分をケアすることが大切でした。自分があって、他者がある。相手に取り込まれることは寄り添うことじゃないし、連帯したいんです。同情したいんじゃなくて。


野菜は命の根源だし、それを育てるって、福祉的にもすごく尊い。種から育てて実が成って、それを食べて、自分のからだになっていく。だからせめて、自分が食べる分のお野菜くらいは、自分の畑でつくりたい。その距離感が掴めた気がする。


●大学院時代について聞かせてください。
2年間、ある触法知的障がい者の方に、ずっと話を聞き続けました。いまは農業をやっていて、「自分の農園を持つ」という夢も持っていて。いまの日本社会の指標で測るなら“障がい者”ということになるけれど、コミュニケーションもものすごく得意で、僕にとっては人生の師匠と思えるようなひとで。在院中、研究分野はコロコロ変わっていったんですけど、そのひとのための研究であることは、一貫していました。

●どういったきっかけで出会ったのですか?
その方が所属する事業所へ、農業を経験させてもらいに行ったのがはじまりです。自分は農作業を教えてもらう立場だから、支援者と被支援者というような非対称な関係性じゃなくて、最初からフラットだった。それも大きかったですね。

●農業にも興味を持っていた?
修士論文では、生きがいと金銭的な安定とを両立した働き方や就労支援もテーマに掲げていたんです。それで、農業に行き当たった。野菜は命の根源だし、それを育てるって、福祉的にもすごく尊い。種から育てて実が成って、それを食べて、自分のからだになっていく。それって農業でしか得られない実感だなって。

●農業と福祉もつながっていたのですね。
農業と福祉は相性がいいと思います。福祉はひとの幸せをつくることで、そのためには衣食住を整えることだと、自分はずっと思っています。福祉的な網から漏れるひとたちって、衣食住が荒れていることが非常に多いのも事実で。それに、農業は“暮らし”なので、生きていくために、幸せになっていくために、とても自然なことだと思います。

●そこにも平井さんのフラットな目線が感じられますね。実際に土を触ってみて、どうでしたか?
やっぱり大変ですよね。美しい話ばかりじゃないですし。自分にはあまり向いていないかもしれないとも思いました。ただ、自分が食べる分のお野菜くらいは、自分の畑でつくりたいなって。その距離感が掴めた気がします。

●最後に、これからの展望について聞かせてください。
つくり手が頑張っている現場をたくさん見てきたいま、でも同時に、それを受け取る側も頑張らないといけないとも感じています。大学院時代に代々木八幡のNEWPORT(※1)で働いていたのですが、音楽や映画、ナチュラルワインにヴィーガンフードがあるその環境に、福祉が混じったら面白いんじゃないかと考えていました。大学院の2年間にお世話になった彼のつくったお野菜も、こういう場所で料理にして提供できたらいいな、とか。また、大学院を卒業してからは、岩手県にあるクラフトビールの醸造所でビールづくりを学ぶ予定です。ビールは料理を美味しくするものだし、農業ともすごく相性がいい。そうしたさまざまな掛け算に可能性を感じて、取り組んでいるところです。

※1:代々木公園 / 代々木八幡駅からすぐのレストラン。季節に応じた野菜料理、野菜料理によく合うナチュラルワイン、良質な音楽を提供する。


Profile:平井 喬 Takashi Hirai

沖縄県読谷村生まれ。大学院で福祉と農業を研究。現在は岩手県に移りブルワリーで修行中。
夢は農と醸造のある暮らし。

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Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : mitsuharu yamamura(BOOKLUCK)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)

2024.7.20