CHAPTER vol.36【EAT】

山田 海斗 (27)

八百屋

野菜は単価も利益率も低い。そういうことを全部把握してしまうと、たくさん物を置いて、たくさんのひとに買ってもらう方がいいに決まってる。じゃないと、絶対成立しないから。でも、うちはいい野菜を扱ってる店だから、だったら、マルジェラみたいに置いたほうがカッコよくない?と思った。

CHAPTER

今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を

CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地について教えてください。
現在、中三青果店(※1)を構えている新丸子の町が地元です。

※1:「創業五〇年の歴史、新しい八百屋」をコンセプトに八百屋の新しい姿を提案し続ける青果店。2023年8月に新丸子に移転オープン。

●幼少期のことで、とくに記憶に残っていることはありますか?
一番古い記憶は3、4歳の頃。母さんが写真を撮りたいからって、家の前で3つ上の兄とチューさせられたのを覚えています。すごく嫌だった(笑)

●お兄さんとは仲が良かったですか?
そうですね。小さいフィギュアやおもちゃでよく遊んでいました。ただ、僕はスポーツやアウトドアが好きで、兄はインドア派。性格も真逆で、成長するにつれてそうした違いがどんどん顕著になっていきました。

●スポーツやアウトドアについて、どんなことをしていましたか?
ずっとサッカーをしていました。小学校に入ってからはクラブチームに入り、中高は部活に入って週7で。

●どんなところに楽しさを感じていたのでしょう?
集団で動くのが、とにかく好きだったんだと思います。課題があって、それをみんなでひとつずつクリアしていく過程とか。あと、女子マネージャーから水をもらう瞬間。そのために頑張ってましたね(笑)


オトナのスーツスタイルに憧れ、制服のネクタイをきっちり締めて髪を7:3にセットして登校していた時期、頭髪検査でひっかかった。でも、むしろ社会のフォーマルな格好だからと、反抗したことがある。そんな風に、「どうして?」と思うことは多かった。


●集団行動が好き、というのはサッカーに限らず?
なにをするにも、ひとりでやるっていうのは苦手で、すぐに誰かを誘っちゃいます。中1の頃からずっと仲のいいやつとは、いつのまにか仕事のことも共有する仲間になって。いまでも週1のペースで会っていて、それでも話すことがなくなりません。

●サッカーにそれだけ長い時間打ち込んで、スキルアップしていく楽しさみたいなものも感じていましたか?
高校は、強豪校だったわけではありませんが、顧問はめちゃくちゃ厳しかったですね。とくに、礼儀や作法には厳しくて。

●そうした厳しさに反発を覚えたり、というようなことは?
なかったですね。「なんだよ」って思うことはあっても、不良ではなかったし、そういうことに時間は使っていなかったです。それに、厳しいだけで、理不尽な抑圧みたいなことではなかったので。ただ、高校時代に、オトナのスーツスタイルに憧れるようになって、それで、制服のネクタイをきっちり締めて髪をポマードで7:3にセットして登校していた時期があって。頭髪検査でポマードがひっかかったんです。でも、チャラチャラ腰パンしてるわけでもないし、これってむしろ社会のフォーマルな格好なんじゃないのって、反抗したことはあります。整髪料を禁止する校則の根っこにある意味には反していないだろうって。

●そうした紋切り型のルールや締め付けみたいなことと自分の考えの衝突や違和感を感じることは多かったですか?
僕は、その感覚は強かったかもしれませんね。「どうして?」って思うことは多かった。なかには「ルールが絶対だ」みたいな先生もいて、そういう先生とは、よく喧嘩してました。


高校までは、自分なりの正しさを他人にも押し付けるようなところがあった。自分がカッコいいと思うものが、みんなにとってもカッコいい、みたいな。嫌なヤツだったと思う。


●曲げられない自分なりの正義があったと。
そして、それを我慢せず口に出すタイプでもありました。だから、敵も多かったです。高校までは、そういう自分なりの正しさを他人にも押し付けるようなところがあって。自分がカッコいいと思うものが、みんなにとってもカッコいいでしょ、みたいな。嫌なヤツだったと思います。

●心を開ける友達が少ない方だった?
サッカー部で、背も高かったというのもあって、「自分が一番イケてるだろ」って、スクールカーストの一番上にいるつもりでいたし、実際、まわりからもそんな風に認識されていたと思います。“まわりとは違う”っていう感覚で生きていたので、分断されていたし、嫌われてもいたと思う。

●その自信というのは、実際、サッカーが上手かったり、勉強ができたり、ひとより秀でている自負もあったからでしょうか?
サッカーは上手かったと思います。言えるだけの人間じゃないといけない、とは思っていたので、走りの練習なんかもつねに一番でした。勉強も、とくだんできていたわけではないけれど、好きな科目では高得点を取っていましたね。

●逆に、そうして自分に自信をつけていったからこそ、成し得たことや得られた経験はありますか?
どんな課題にも取り組んでいけるっていうのは、あったと思います。部活でも、自分たちなりの目標をつねに掲げてやっていましたし。よく衝突もしましたが、でもそういう摩擦を経て成功体験につながることも。すぐに諦めない根性も、そこで培われたと思います。


“まわりとは違う”という感覚や自分の性格が、大学の友人の影響で、180度変わった。リスペクトみたいな感覚が芽生えて。大学には、お笑い芸人を目指しているとか、絵を描きたいとか、ラップやってるとか、いろんな趣味を突き詰めているひとがたくさんいて、彼らと出会えたことも大きかった。みんな本当にすごく頑張っているし、超カッコいい、みたいな。


●高校卒業後のことについて聞かせてください。
高校までの、“まわりとは違う”っていう感覚や自分の性格が、大学へ入ってできたひとりの友人の影響で、180度くらい変わりました。それまでのように「これってダサいよな」って、どんなにマイナスな発言をしても、「ひとはひと」って、いなされて。それで、「ああ、何の意味もないな」っていう風に思えたというか。自分も好きなように生きていて、それが許されているなら、どんなひとにも許されるべきだってわかったというか。そいつと出会えたことは、僕の人生にとって本当に大きかったです。

●そんなにも大きく、ひとのありようを変えてしまう。その彼はどんなひとだったのですか?
ひとを惹きつける魅力があります。一緒にいたくなるというか。自然と、そいつのまわりにはひとが集まって、みんなも、どんどんやわらかくなっていくんです。そいつ自身はめっちゃルーズで、家に鍵もかけず、だからいつもそいつの家には知らないやつしかいなくて(笑) 街で会った外国人バックパッカーを連れ込んだりもしてました。どんな性格の人間でも、そいつと一緒にいるとすごく心地よかったんだと思います。

●その彼に出会ってからは、山田さん自身の、ほかのひとに接する姿勢や気持ちも変わっていきましたか?
変わりました。簡単な言葉ですが、リスペクトみたいな感覚が芽生えて。実際、大学には、お笑い芸人を目指しているとか、絵を描きたいとか、ラップやってるとか、いろんな趣味を突き詰めているひとがたくさんいて、彼らに出会えたことも大きかったと思います。みんな本当にすごく頑張っているし、超カッコいい、みたいな。

●自分の根幹が揺さぶられて、そうしたまわりの環境の変化も相まって、それで自分の行動で変化したことはありますか?
これだけカッコいいひとたちがいるんだから、1箇所に集めたら絶対面白い。そう思って、イベントのオーガナイザーをやりはじめました。押上の銭湯を借りて、湯船のお湯を抜いてDJブースをぶちこんでDJイベントをしたり、マーケットイベントをしたり。

●イベントを主催するというのは初めての経験ですよね、どうでしたか?
最高に楽しかったです。それこそ、カッコいいことをやっているひとや楽しいひとたちにどんどん新しく出会えるし。みんな志が高くて、他人の志に対しても寛容だから、すごくハッピーでピースな空気だし。そこで仲良くなったやつらと、一緒に仕事をする関係になったりもしました。


サッカーのポジションもボランチで、ゴールを決めるより、あいだに入って調整するみたいなのが、その頃から性に合っていたのかも。イベントでも、自分が主役になって目立つより、その空間を眺めるのが好き。そこに美学を感じていた。


●オーガナイザーという役割で、イベントを俯瞰で見るというような感覚も好きでしたか?
まさにそうでした。ずっとやっていたサッカーのポジションも、ボランチだったんですよ。ゴールを決めるより、あいだに入って調整するみたいなのが、その頃から性に合っていたのかも。イベントでも、自分が主役になって目立つより、その空間を眺めるのが好き。そこに美学を感じるというか。

●大切にしていたことはありますか?
たとえば銭湯でのDJイベントでは、ワット数を無理やり銭湯の基準と合わせたせいで、「ターンテーブルがビリビリするんだけど……」みたいなことがあったり(笑) でもみんな面白がってるからいいか、って。関係者や演者が一番楽しんでるイベントが、一番面白いと思っていたので、そこの満足度を上げるための工夫はしていましたね。だから、専属のPAさんを用意してDJが気持ちよくやれる環境づくりを心掛けたり、会場にある機材は使わず、場所の雰囲気に応じて自分たちで用意したり。カフェを借りる場合は、室温をあえて2℃上げて、ドリンクの売り上げを伸ばすようにしたり。

●ゆくゆくはそれを仕事に、というようなことは考えていましたか?
もうできちゃってたので、たとえばイベント制作会社に入るみたいなことは考えていませんでしたね。それに、お金を稼ぐとか、ただただ規模を大きくするっていうようなことには興味がなかったし、そういうのはダサいと思ってました。幸い、まわりも、仲間を大事にしようっていう人間ばかりだったので、それをないがしろにしてまで効率的にしたり大きくしたりっていう考えにはならなかったんです。

●就職することも、とくに考えていませんでしたか?
就活のことは一瞬も考えず、卒業してからもひたすら続けていました。でも、1年くらい経って、コロナがはじまって。イベントは全部キャセル。それで、八百屋になりました(笑)


野菜は単価も利益率も低い。そういうことを全部把握してしまうと、たくさん物を置いて、たくさんのひとに買ってもらう方がいいに決まってる。じゃないと、絶対成立しないから。でも、うちはいい野菜を扱ってる店だから、だったら、マルジェラみたいに置いたほうがカッコよくない?と思った。


●すぐに切り替えられたのですか?
すぐに切り替えました。自分のやりたいことができないなら、もういいや、違うことを探そうって。それで、家業の八百屋を手伝うことに。それまで八百屋になるなんて一度も考えていなかったんですけど、でも、面白そうだなって思ったんです。というのも、「やおよろず」って言葉があるように、江戸時代の八百屋では、野菜に限らず本当にさまざまなものを扱っていたらしくて。そのことを知って、「それってセレクトショップじゃん!」って思ったんです。なら、絶対にうまくいくなって。

●それまでさまざまなジャンルを掛け合わせてユニークなイベントを企画してきたからこその視点かもしれませんね。
とはいえ、まずはきちんと勉強しようと思って、八百屋の基礎を学ぶことにしました。1年間なので、圧倒的に短いんですけど。ただ、学びながら、未発達な自分だからこそできることがあるんじゃないかとも思って。きっと、知りすぎないからこそチャレンジできることがあるって。

●というと?
野菜は単価も利益率も低い。そういうことを全部把握してしまうと、たくさん物を置いて、たくさんのひとに買ってもらう方がいいに決まってるんです。じゃないと、絶対成立しないから。でも同時に、うちはいい野菜を扱ってる店だってこともわかっていたので、だったら、マルジェラみたいに置いたほうがカッコよくない?って思って。

●野菜のよしあしは、たとえば洋服に比べるとそこまで明確ではないように思います。どんなところを、“良い”と捉えていましたか?
うちは、地域の保育園への配達業務もおこなっているんです。何千人の子どもたちの口に入る食料を、日々まかなっています。毎朝配達に行って、彼らと触れ合うと、その体を間接的にでもつくっている責任を意識せざるを得ません。野菜の質には必然的にこだわることになるし、そこが、僕にとってもイニシアチブになりました。


店頭で、僕らがお客さんから受け取れるのは、ぜんぶ“後日談”。感動が起こるモーメントは店の外にある。それを感じたくて、だから、“おいしいが生まれる場”をつくりたい。


●一緒に仕事をする相手が、友人・知人から家族になったわけですが、その変化についてはいかがでしたか?
親と仕事をすることについてはどうこうないのですが、単純に、仲間とできないのが、精神的にきつかったですね。「八百屋として、また絶対に渋谷へ戻っていくんだ」という決意で、死ぬ気でやっていました。

●コロナもしばらく経つと落ち着きをみせ、イベントに軸足を戻せる社会に戻ってきたわけですが、それでも、八百屋を続けようと思った理由やきっかけはありますか?
2、3年目になると、いけるかもっていうような感覚が出てきたんです。また少しずつ仲間と仕事をする機会が増えてきて、渋谷でポップアップをしたり、コラボ商品をつくったり、そうすると楽しくなってきて。このまま、この武器でやれるかもって思いはじめたんです。

●“仲間”という意味では、野菜のつくり手など、この仕事ならではの新しい仕事仲間との関係はどうですか?
生産者は基本的につくることで手一杯なので、販路拡大のお手伝いをするとか、加工品をプロデュースするとか、新しい視点で事象化するっていうのはもともと好きでやってきていたので、その矛先が、いまは生産者のみなさんになっていますね。

●自分が主役というより引いた立場で、というのは変わらず。
八百屋って、どこまでいってもあいだに挟まれる立場です。だから、生産者がつくった味や想いを届けることに対しては気を遣わないといけないし、簡単においしいと言うのもいけない。それに、食べ物って“ニーズ”ですが、ニーズを追いかけるだけでは絶対にスーパーには勝てない。そこから逸脱して生き残るためには、“ウォンツ”に訴えかけるワクワクするような体験や接客をお店に用意していかないといけない。そういうのもイベントのオーガナイズをしていたときと似たような考え方で。合ってるんだなって、最近すごく感じますね。

●最後に、これからの展望について聞かせてください。
この近くに、飲食店を出したいと思っています。店に立っていると、お客さんから日々うれしい言葉をもらうんです。「苺が大嫌いだったうちの子が、ここの苺だけは食べられるんです」とか「この野菜はこう料理するとおいしいのよね」とかって。ただ、そうやって僕らが受け取れるのって、ぜんぶ“後日談”なんです。感動が起こるモーメントは店の外にあるんです。それを感じたくて、だから、“おいしいが生まれる場”をつくりたいんです。


Profile:山田 海斗 Kaito Yamada  

新しい八百屋の姿を提案する中三青果店を運営。
その他にもファーマーズマーケットの企画・運営や、農家さんの販路拡大をサポートするコンサルティングも業務として行う。
来年の9月には八百屋がプロデュースする飲食店オープンを控える。

Instagram


Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : mitsuharu yamamura(BOOKLUCK)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)

2024.10.8