佐藤 飛鳥 (28)
野菜を育てることにおいては、8割は野菜の力で、ひとの力は2割程度。それに、農家さんが農業を仕事にできるのは、食べ手がいるから。そこには、上も下もない。すべての関係性がフラットになってはじめて、いいものができるんじゃないかと思う。
CHAPTER
今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を
CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。
●出身地について教えてください。
秋田県出身です。
●幼少期のことでとくに思い出に残っていることを聞かせてください。
おじいちゃん、おばちゃんが、秋田のなかでも僻地に住んでいて、そこへよく遊びに行っては山菜採りや栗林に連れて行ってもらっていました。
●当時からそうした自然との触れ合いを楽しんでいた?
遊びに行きたいって、自分からお父さん、お母さんに言うくらいだったので、好きだったんだと思います。
●住んでいたのは、もう少し街の方だったということでしょうか?
もう少しだけ。とはいえなにも無い場所でした。そのことに違和感を感じていたというわけではありませんが、でも東京への憧れがめちゃくちゃあって。いつか上京したいと思っていました。
ダンスにも種類があって、それぞれに目指すものも用途も違う。私はストリートやジャズダンス、日本舞踊もやってきたけど、肌に合ってたのはストリートだった。団体競技というよりかは、みんなで踊っているけれど、それぞれが自立して別々の動きをするような。
●東京の様子をなにかで見て知っていた?
4歳の頃からずっとダンスをやってきました。YouTubeやテレビでは、東京のダンスシーンが放送されたりしていて、「東京の先生に習いに行きたいな」とか、「いろんなひとが集まっている場所で切磋琢磨したいな」とか、そういうことをうらやましく感じていたんだと思います。ずっと大人たちに囲まれてやっていたので、どうにか自分を主張したい、ダンスで表現したい、みたいな気持ちもけっこうあって。その気持ちが行き着いた先だったのかもしれません。
●ダンスでは、どんなことに喜びや楽しさを感じていましたか?
上手になっている実感が楽しかったですね。あと、大人に囲まれている環境も。学校では聞けないような情報を自分で仕入れられることにワクワクして。それこそ、先輩たちが、「東京へ行ってああいうのが楽しかった」みたいな話をしているのをよく聞いていました。
●団体競技が好きだったのでしょうか? みんなでやることの面白さは?
そういうのは、意外となかったかもしれません。エンターテイメント的なダンスや、ストリートダンスみたいなカルチャー的なダンスなど、ダンスにも種類があって、それぞれに目指すものも用途も違います。私はストリートやジャズダンス、日本舞踊もやってきたけど、みんなと揃えるジャズダンスより、肌に合ってたのはストリートでした。みんなで踊っているけど、それぞれがぜんぜん違う動きをしている、みたいな。
●それぞれが自立しながら、でもみんなで一緒にいる、みたいな?
ダンスに限らず、そういうマインドはあったのかもしれません。みんなの影響を受けるより、何でも自分で決めるほうが多かったですね。
大学時代に出会った先生に、ずっと教えてもらっている。「自分が楽しいなら別になんでもいいよね」っていうタイプで、とても自由。みんなから憧れられる存在で、先生のまわりに集まるひとたちとなにかを一緒にやるのも、すごく心地よかった。
●小さい頃からの念願かなって、東京へ出たのはいつのことですか?
大学入学のタイミングです。
●どうでしたか? どんなことをして過ごしていた?
すごく楽しかったですね。大学は渋谷にあって、毎日飲んで、遊んで、大変でした(笑) それでも、相変わらずめちゃめちゃダンスもやってて。週5、6でレッスンに行って、ダンスサークルにも入って、バイトしてからダンスして……。寝る間も惜しんで、打ち込んでいました。
●ダンスに関して、高校時代までと変わったことはありましたか?
教えてくれる先生によっても流派があったりひとつのジャンルのなかにも、いろんなダンスがあることを知りました。大学時代に出会った先生とはいまでも仲がよくて、いまでもそのひとにずっと教えてもらっている、という感じです。
●その先生は、どんなスタイルを持っていましたか?
それこそ、一番自由だと思えるような。ああしなさいとか、こうしたら?みたいな助言はなく、「自分が楽しいなら別になんでもいいよね」っていうタイプ。みんなから憧れられる存在で、先生のまわりに集まるひとたちとなにかを一緒にやるのも、すごく心地よかった。
なにがあっても3年勤めるという考え方もあるけれど、あと2年ここで過ごすか、同じ期間を使って自分のやりたいことをして成長するのかを比べたら、圧倒的に後者がいいと思った。
●仲間との絆もあるけれど、それぞれが自由。そこに楽しさを見出していたのは、それまでと変わらなかったようですね。その後の生き方を考えるうえで、ダンスで生きていこう、とも考えましたか?
考えたんですけど、ストリートダンスはひとに見せるタイプのものではないから、それで稼ぐのはちょっと筋違いに感じて。ダンスは好きでやっていこうって決めました。だから、ダンスのために休みが自分で決めやすいなどの理由で、大学を卒業してDHCに就職しました。でも、1年半で辞めてしまって。
●辞めてしまった理由は?
会社のなかで自分が上に行けたとしても、100歳までそこで働くイメージが湧かなかったことがひとつ。また、会社内だけに通用するルールしか教えてもらえず、ポンと社会に出たときに通用する自分にはなれそうになかった。なら時間の無駄だなって。なにがあっても3年勤めるという考え方もありますが、あと2年ここで過ごすか、同じ期間を使って自分のやりたいことをして成長するのかを比べたら、圧倒的に後者がいいと思ったんです。それで転職を決め、食品の専門商社に就職しました。
●会社に所属するというかたちは変わらなかったものの、それまでとは違った働き方ができていましたか?
面談のときから社長にすごく気に入ってもらえて、新規事業立ち上げやサイドワークなど、とにかく好きなことをやっていいと言ってもらえました。自分の時間を割く以上はと、最初から相当自己主張していたのもあるんですが……(笑) もちろん、好き勝手にやらせてもらうなら、既存の事業できちんと数字を作ってからにしたかったので、まずは営業を頑張って、会社のなかで1位の成績を獲りました。それと同時進行で、好きなこともやらせてもらったかたちです。
●具体的には?
ニューヨークへ3ヶ月間、留学に行かせてもらいました。高級食材の店や工場を見学し、“現場”を知りたいと思って。でも、帰ってから頑張るぞって、いざ帰国したら、ストライキで会社がなくなる寸前で……。そのまま廃業してしまいました。
秋田の農家さんからは「野菜がすごく余っちゃって……」という悩みを聞き、でも東京では、余っているという野菜がスーパーには置いてなかった。その乖離を目の当たりにして、初めて農業に興味が湧いた。秋田にも東京にも住めて、大好きな野菜も毎日眺められる、そんな働き方の可能性を感じた。
●ニューヨークへ行っていた期間で得られたことは?
マーケットやスーパーへ行くのがめちゃくちゃ楽しくて、どうしてだろうと考えたら、野菜のフォルムがとにかく可愛くて好きだってことに気がついたんです。それが、ゴロクヤ市場(※1)をはじめるきっかけにもなって。
※1:秋田県産の野菜を専門とした卸売業。2017年にスタートして以来、県内にある50軒の農家さんと提携。秋田県以外であまり流通していない野菜も含め、新鮮な状態でレストランやご家庭にお届けしています。
●そんな気づきがありつつも、個人で農産物の卸売をするという着地に至ったのには、どんな経緯がありますか?
その頃は、おじいちゃんおばあちゃんに会いにもっと秋田へ帰りたいし、でも東京の友達との時間も大切だから、地元に帰るとか東京に残るとかじゃない仕事の仕方や生き方はないのかな?と模索してもいたんです。それで、帰国後に秋田へ帰省したタイミングで、ある農家さんから「野菜がすごく余っちゃって……」みたいな悩みを聞いて、でもその後東京へ戻ると、余っているという野菜が、でもスーパーには置いてなかった。その乖離を目の当たりにして、初めて農業に興味が湧いたんです。蓋を開けてみると、市場出荷や農協へ出すみたいなやり方では、どうしても野菜が余る構造になっている、みたいなことがわかって、なら私が野菜を卸す仕事をすれば、おばあちゃんやまわりの農家さんの野菜をもっといろんなひとに届けることができるんじゃないかって。おまけに、秋田にも東京にも住めて、大好きな野菜も毎日眺められる。そう思ったんです。
●仕事として野菜や農業に関わることで、どんなことが見えてきましたか?
野菜に対する想いは変わりません。どんなひとに育てられたとしても80%は自らの力で成っているので、本当に尊くて、やっぱり見た目が可愛い。でも、農業や農家さんに関することは、知っていくにつれイメージが変わってきました。どんなに技術が発展しても、市場出荷しないといけないとか、JAに出さないと借金が返せないとか、いろんな問題が蓄積しすぎてて、それを総ざらいできない。ベースがアップデートされない。そんななか資材代や手数料は上がっていくから、みんなの愚痴は止まらないのは当然です。
●そんななか、佐藤さんにできる役割は?
秋田の農家さんを少しずつ回り、話を聞きながら野菜を買わせてもらい、それを東京の飲食店や量販店へ卸すことで多くのひとに届けること。自分で語れるものでないと納得して販売することができないので、いまは秋田県産の野菜に限っています。
野菜を育てることにおいては、8割は野菜の力で、ひとの力は2割程度。それに、農家さんが農業を仕事にできるのは、食べ手がいるから。そこには、上も下もない。だから、すべての関係性がフラットになってはじめて、いいものができるんじゃないかと思う。
●一緒に仕事をする農家さんは、どのように決めているのでしょうか?
3つ基準を設けています。まず、秋田県産の野菜を作っていること。次に、たとえばお米の籾殻を堆肥に混ぜる、雪を夏まで残し冷房機能に活用するなど、地域資源を使っていること。そして、50年後も同じ農地で無理なく生産活動ができるように務めていること。
●3つ目について、具体的に教えてください。
生産方法の透明性の確保。たとえば、たとえ農薬を使っていたとしても、それをきちんと開示してもらい、できれば必要の半量だけにしてもらうなど相談しています。農薬を使わないことで農家さんの生活がサステナブルじゃなくなるなら、使った方がいいこともあります。ひとも、土も、無理なくそこで農業を続けられることを念頭におく農家さんと一緒に仕事をしたいと考えています。
●飲食店や量販店へ卸すうえで、農家さんの顔を知り、直接やりとりをしていることのメリットをどのように感じていますか?
扱う野菜のすべてを伝えることができることは大きいですね。また、農家さんによっては、つくってほしいものがあればつくるよ、というスタンスの方もいらっしゃるので、飲食店さんからの要望をヒアリングして、生産に活かすことも可能です。
●どちらのことも知って、はじめて成立する関係性というか。
はい。でも、ひとももちろん大事ですが、野菜を育てることにおいては、8割は野菜の力で、ひとの力は2割程度。それに、最近は農業がある種トレンド化していて、「農家さんは尊い」みたいになりがちですが、彼らが農業を仕事にできるのは、食べ手がいるから。そこには、上も下もないんです。だから、すべての関係性がフラットになってはじめて、いいものができるんじゃないかと思っています。そのために私も、伝えるという部分に重きを置いて、日々勉強しているところです。
Profile:佐藤 飛鳥 Asuka Sato
プロフィール
Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : mitsuharu yamamura(BOOKLUCK)
Photo : Gaku Sato
2024.1.