CHAPTER vol.38【EAT】

藤代 将平 (29)

Staff Only シェフ

フランスでは、食の“近さ”を感じた。「料理人だから」とかじゃなく、どんなひとでも市場に行って野菜を買うし、特別な日じゃなくてもレストランへ行って、昼間からお酒を飲んで楽しむ。なにもかもがフラットだった。

CHAPTER

今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を

CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地はどちらですか?
神奈川県の海老名市出身です。

●幼少期、とくに印象に残っていることはありますか?
ひとと関わるのがめちゃくちゃ苦手な子どもでした。人見知りで、緊張しい。家族以外とコミュニケーションを取ったり、外へ出たりするのが苦手。とくに覚えているのは、幼稚園のプールの授業のとき、みんなで当たり前のように裸で教室に戻るっていうのが嫌だったこと。そういう恥ずかしさが、その頃からありました。

●そういう性格だと、友達もつくりにくかったのでしょうか?
小学校1年から中学3年までのあいだ、ずっと野球をしていて、だから野球を通じて友達をつくることが多かったです。人見知りの性格も、そうしているうちに気にならなくなってきて。むしろ、人前に出て目立ちたい、みたいな矛盾する気持ちもありました。

●その気持ちが行動にも現れていた?
野球でも、「ショートを守りたい」「いい打順で打ちたい」みたいな気持ちがありました。あと、勉強も、「学年のなかで上の方にいたい」とか。褒めてもらえると嬉しいし、もっと褒められたい欲があった。同時に負けず嫌いなところもあって、野球でうまくいかないときにはめちゃくちゃ態度に出してしまって、それでよく怒られていましたね。野球では、どちらかというと悔しい思いをしたことのほうが印象に残っています。

●そのなかでも記憶にある悔しかった経験は?
小学5年生のとき、入っていた地域の野球チームには、6年生の代がいなかったんです。だから、どの大会に出てもみんな学年が1個上で、ぜんぜん勝てなくて。そのときキャプテンだったのもあって、めちゃくちゃ悔しかったです。


野球では、チーム全員で同じところを目指していたかった。まだ向かう先も定まっていないなか、その過程で大人のあいだでズレが生じて、しかもそれによって自分たちが怒られて……、そういうことに納得がいかなかった。筋が通ってないと思った。


●それだけ本気で向き合ってもいたということでしょうね。中学3年で辞めてしまったのには理由がありますか?
小学生の頃は、それこそプロ野球選手になりたいと思っていたんです。それで、6年生のとき地域のクラブチームに入って、硬式野球をやるようになりました。ただ、チーム内のコーチ同士で意見が一致しないことが多くて、僕らもかなり振り回された。それがすごく嫌で、純粋に野球をする楽しさや悔しさを味わえなくなってしまったんです。

●その「嫌だ」という気持ちについて、もう少し詳しく聞かせてください。
チーム全員で同じところを目指していたかったんだと思います。そのときは、まだ向かう先も定まっていないなか、その過程で大人のあいだでズレが生じて、しかもそれによって自分たちが怒られて……、そういうことに納得がいかなかったんです。筋が通ってないと思った。

●最初の、「自分が褒められたい」という気持ちから、だんだんと、チーム一丸となって向き合うことや、その結果なにかを得ることの方に、価値観が移っていったと。
野球のほかに、ピアノ、習字、水泳といった習い事もしていましたが、自己完結するものばかりでした。野球は、チームで達成することが楽しかったですね。小学5年生のときに勝てなくて悔しかったのも、チームとして勝てなかったのが悔しかった。クラブチームのときも、選手たちとコーチが同じ方向を向いていない“個の集まり”だったことが、自分のなかで納得できなかったんだと思います。

●いわば周りの大人のせいで辞めることになってしまって、悔いは残りませんでしたか?
野球自体を辞めようとも思っていたのですが、中学2年の春頃、学校のほうの野球部の顧問や友達たちが、「戻ってくればいいじゃん」って言ってくれたんです。おかげで、そこから1年半くらい、小学校時代からのメンバーでまた野球を楽しむことができました。負けてちゃんと悔しい、勝ってチームとして嬉しい、みたいなのも、改めて感じることができました。


母は、「男だから料理ができない」とか「女だから〇〇」というようなことをすごく嫌うひとだった。それで、中学時代から夕飯を自分でつくることもたまにあって、料理は好きだった。また、母が自分の友達と開くホームパーティーで、そのなかのひとりが中華鍋と中華包丁を使っておいしい料理をつくる姿がすごく格好よく見えた。それで、卒業後は調理師学校へ行こうと決めた。


●高校に入ってからはどんなことに熱中しましたか?
仲のいい友達がダンス部に入るっていうので、じゃあやってみようかなって。ダンスはそれまでにやったことがなかったですが、だんだんと上達する楽しさを感じられていました。ピアノを習っていたこともあって、リズム感や音楽も好きでしたね。

●野球と同じような、チーム一体としての楽しみも見出せましたか?
うちの高校はちょっと特殊で、ダンス部が、学校のあらゆる行事ごとを盛り上げる中心にいたんです。当時としては珍しく、体育祭にもダンス競技がありましたし、団長もかならずダンス部の部長でした。文化祭は文化祭で、メインイベントとして校舎の目の前の海辺の大階段にステージをつくってダンスするのが通例。で、僕はダンス部の部長と、自動的に体育祭の団長も務めることになって、そこで、団のみんなをまとめたり、自分たちで考えたものをさらに学校全体へ共有して、一致団結して頑張ったりすることの楽しさを味わうことができました。

●高校では、その後の進路について考える機会も多いと思います。藤代さんはどのように考えていましたか?
体を動かすのが好きだったので、体育教師になろうかと考えていました。あとは料理。母が、「男だから料理ができない」とか「女だから〇〇」っていうようなことをすごく嫌うひとだったので、中学生の頃から夕飯を自分でつくることもたまにあって、料理も好きだったんです。母はときどき、自分の中高の友達たちとホームパーティーをしていたのですが、そのなかのひとりが、中華鍋と中華包丁を使っておいしい中華料理をつくってくれていて、それがすごく格好よく見えていた。そういうのもあって、卒業後は調理師学校へ行くことに。

●では、学校へ入ってからは中華料理を極めようと?
高校2年の頃はそう思っていたんですけど、高校3年の頃、本屋で立ち読みした『専門料理』でガストロノミー特集が組まれていて、そこに、大阪の三ツ星レストラン・HAJIME(※1)のシェフ・米田肇(はじめ)さんが載っていました。その記事を読んで、「フランス料理ってすごい」と惹き込まれて……。それで、フランス料理をやろうと決心したんです。

※1:世界的グルメサイトで史上最短期間での星獲得や様々なベストレストランにランクインするなど、ガストロノミー・シーンで世界が注目するレストラン


店のこだわりが、初めてのひとにも心地よく入ってくる感じがあった。堅苦しくもフランクすぎもしないサービスも、料理も空間も、変な言い方だが、すごくちょうどよかった。「僕らもいていいんだ」と思える、これが三ツ星なんだって。


●きっかけになったその店には、実際に足を運びましたか?
専門学校2年生のとき、いまの妻とふたりでコース料理を食べに行きました。19歳の若造でしたが、当時はかなり珍しいノンアルコールのペアリングが楽しめたり、もちろんいまでも覚えている皿もあったりで、「すごい体験をしたな」という印象をはっきり覚えています。ふたり合わせて10万5千円のお会計でしたが……(笑)

●そこで体験したことについて、もう少し詳しく聞かせてください。
HAJIMEでは、ドアノブの温度ひとつとっても人間が一番気持ちいいと感じるようにこだわり尽くしている、というような話を本で読んでいました。実際にお店に行ってみると、そういうこだわりが、初めてのひとにも心地よく入ってくる感じがあって。まだ19歳なのに、堅苦しくもフランクすぎもしないサービスを提供してくれました。そんな風に、料理も空間もサービスも、変な言い方ですが、すごくちょうどよかった。「僕らもいていいんだ」って思える、これが三ツ星なんだって。

●その経験を経て、学校や料理への向き合い方になにか変化がありましたか?
自分のなかで、HAJIMEは唯一無二の店だってことが、さらに確固となりました。だから、「フランス料理をやるなら一度はフランスへ」みたいなことも、どちらかというと自分には不要とも思えて。なんだか、わからなくなったというか。ただ、母に「行ってみれば?」と背中を押されたのもあって、ワーホリでフランスへ行ってみることにしました。


フランスでは、食の“近さ”を感じた。「料理人だから」とかじゃなく、どんなひとでも市場に行って野菜を買うし、特別な日じゃなくてもレストランへ行って、昼間からお酒を飲んで楽しむ。なにもかもがフラットだった。


●フランスではどう過ごしましたか?
結局、フランスにはそれから5年間いることになったのですが、日本人がシェフのレストランで働いたり、フランス人シェフのレストランで働いたり、暮らしていたシェアハウスでは、食の業界で働くシェアメイトたちに恵まれたり、大変なことも多かったですが、楽しく過ごすことができました。ワーホリ期間が終わったあとは、働いていた店のオーナーにビザを取ってもらって、さらに滞在できることになって。そうしているうちに、知り合いづてに新しくオープンするレストランに誘われて、1年半、そこでシェフをやりました。それが23歳のときですね。

●レストランで働く基礎を、フランスにいるあいだにしっかり積み重ねていったわけですね。とくに印象に残っていることはありますか?
日本と比べて、食の“近さ”を感じました。「料理人だから」とかじゃなくて、どんなひとでも市場に行って野菜を買うし、特別な日じゃなくてもレストランへ行って、昼間からお酒を飲んで楽しむ。なにもかもがフラットだと思いました。

●一方、料理人として学んだフランスならではのことは?
フランス料理って、新鮮なものを届けるより、加工してちゃんとおいしい状態までもっていくような料理なんです。地理的にも内陸なので、長期保存に向いている食材を多く使ったり、コンフィして長持ちさせたりするのが得意。日本とは違う発展を遂げた食文化があって、それを学べたのが大きかったですね。


生産者と直接のつながりを持てるようになったことは大きかった。それまで学んできた、素材を活かす調理をするフランス料理のベースに、いい食材を加えることができるようになった。


●日本に戻ってきてからのことについて聞かせてください。
学生の頃からいいなと思っていた、メゾン サンカントサンク(※2)で働けることになりました。HAJIMEの料理ももちろん憧れでしたが、あるとき料理雑誌のビストロ特集を読んで、「ビストロっていいな」と思わせてくれたのが、サンクだったんです。ウェルカムなムードに、純粋に惹かれました。

※2:2010年、代々木上原駅駅のすぐそばにオープンし、カジュアルな雰囲気で本格的なフレンチを楽しめるビストロ。

●実際に働いてみると、HAJIMEで見たものやフランスでやってきたこととは、またガラリと違うことも多かったですか?
一番戸惑ったのは、お客さんに関してでした。「楽しみに来ている」というより、「楽しませてもらいに来ている」ような受け身な印象を強く受けて。フランスでの食の近さの話をしましたが、やっぱり、フランス人は飲食店にも楽しみに来ているんですよね。まずは自分たちが楽しむのが前提ですべて。そこに、料理とお酒もある。そんな感じ。

●お客さんに、もっと思い思いの時間を自由に過ごしてほしいと思った?
そうです。もちろんお店次第でもあるので、だれもが自然体でいられるような店づくりも絶対に必要ですが。そういう意味では、改めて、HAJIMEのすごさにも気づきましたね。そこには受け身にさせないようなアイデアや努力があった。

●一方、料理人として、メゾン サンカントサンクではどんなことを学びましたか?
生産者と直接のつながりを持てるようになったことは大きかったです。それまで学んできたフランス料理のベースに、いい食材を加えることができるようになった。


自分の店も、日常づかいできるような場所にしたい。子どもも犬も連れて来られて、家族の場所の延長線上にあるような。そんなホッとできる場所に、自分の料理があってくれたら嬉しい。


●いまはスタッフオンリー(※3)に立ち、ひとりで料理をしていますね。フランスから戻ってメゾン サンカントサンクでチームになって、その後、またひとりになって。その変遷を経て、感じることやわかってきたことはありますか?
やっぱり、僕はひとと働くのが好きです。いまは独立準備をしながらここで働いていますが、自分の店を持つときは、ひとりで回すような店ではなく、ひとと働いてつくりあげていける店にしたい。難しいこともいろいろあるとは思いますが、でも、みんなでやっていけるほうがいいんです。

※3:池尻大橋にあるストリートバー『LOBBY』2Fに新たにオープンした料理とワイン、カクテル、音楽を楽しむワインバー。

●お客さんに自ら楽しんでほしい、という話もありましたが、自身の店はどんな空間にしていきたいですか?
コロナ禍を経て、改めて、飲食店の身近さを多くのひとが認識したと思います。だから、自分の店も、日常づかいできるような場所にしたいですね。子どもも犬も連れて来られて、家族の場所の延長線上にあるような。そんなホッとできる場所に、自分の料理があってくれたら嬉しいです。

●思い思いに楽しんでもらいたい、というその気持ちには、“飲食店側”、“お客側”と線を引かない印象を受けます。大きな船に乗り合わせた仲間、みたいな。
せっかく同じ空間に一緒にいるなら、同じ方を向いていたいっていうのはあるかもしれません。その感覚は、野球をやっていた頃と変わってないかも。


Profile: 藤代 将平 Shohei Fujishiro

専門学校卒業後5年間フランスで働く。
帰国後メゾンサンカントサンクのシェフの後に現在はstaff onlyにて働きながら、鎌倉での独立に向けて準備中。

Instagram

Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : sayaka hori
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)


2025.1.17