宮﨑 あゆみ (27)
バレエができなくなったとき、私は家族に助けられた。なにも訊かず、慰めるでもなく、ただ存在してくれる家族に。だから私は、“それ”になりたい。ぜんぶに向けて両手を広げて待っていられるファームになりたい。「大丈夫、あるよ」って、ただ。そして、その広げる手を、ちょっとずつ、ちょっとずつ大きくできたら。
CHAPTER
今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を
CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地について教えてください。
群馬県の嬬恋村出身です。
●子どもの頃のことで印象に残っていることはありますか?
3歳のときクラシックバレエをはじめました。当時自分からやりたいって言ったらしくて、とにかく楽しくて、小学校に入る前からバレリーナになるって決めていたくらい。小学校に入ってからも、学校から帰ってきてすぐバレエ教室へ行って、日付を越えてから帰ってくる、みたいな生活を送っていました。
●そんな時期から打ち込めるものを見つけられるってすごいですね。
学校をふくめ、ほかのことには一切興味がなくて。学校の授業も、座っているのもギリギリで、宿題もできなかったですね。
●そのことについて、たとえばご両親はどんな風に見ていましたか?
うちは4人兄妹なんですけど、全員に対して、「やりたいことを全力でやるなら、どんなことでもサポートするよ」っていうスタンスの、格好いい両親でした。毎日何時間もかけて送り迎えしてくれたり、いくらお金がかかってもいろんな国へ留学行かせてくれたり。いまも家族で暮らしていますが、仲もめちゃくちゃよくて、シェアハウスみたいな感じです。
●両親それぞれ、どんなタイプですか?
お父さんは、“仏”みたいなひと。すごく優しくするとかじゃなくて、なにに対しても寛容。なにかをやりたいと言えば、「いいじゃん。やろう。大丈夫」って言ってくれるような。お母さんは、当時は厳しいと思ってたけど、でも“厳しい”のベクトルでいうと、「あなたが決めたことなら、全力でやりなさい」というような、“強さ”みたいな感じ。

いろいろなバレエ団の公演を観に行くなかで、将来は海外のバレエ団に入りたいと、小学校低学年の頃から漠然と考えていた。中学生になると、コンクールに出たり海外のバレエ学校へ短期留学したりしながら、どの国でバレエをするのが自分にとっていいのかを考えるように。そして、卒業後はアメリカのバレエ学校へ入学することにした。
●バレエについては、どういったところに楽しさや喜びを感じていましたか?
表現することが楽しかったんだと思います。バレエって、いわばセリフのないお芝居なので。だから観に行くのもすごく楽しかったですね。「音楽に合わせてただ踊っているだけなのに、物語がわかるってすごい」って。
●小学校に入ってからも、将来バレリーナになるという気持ちに変わりはなかったですか?
はい。いろいろなバレエ団の公演を観に行くなかで、将来は海外のバレエ団に入りたいと、小学校低学年の頃から漠然と考えていました。中学生になると、コンクールに出たり海外のバレエ学校へ短期留学したりしながら、どの国でバレエをするのが自分にとっていいのかを考えるように。そして、卒業後はアメリカのバレエ学校へ入学することにしたんです。
●アメリカを選んだ決め手は?
成長するにつれて、「私は、体は小さいしスタイルもよくないぞ」っていうのがわかってきて。自分の強みはなんだろうって分析した結果、テクニックには自信があったんです。なら、身長やスタイルが重視されることが多いヨーロッパのバレエ団でやるより、どのバレエ団にもいろんな人種がいるアメリカのほうがいいだろうと思って。
●アメリカでの学校生活はいかがでしたか?
すごく楽しかったです。英語や栄養学、解剖学などの授業もありましたが、ぜんぶバレエに繋がることだったので、勉強もまったく苦じゃなくて。それまでの生活に比べて踊っていられる時間ももちろん長かったし、ジャズやコンテンポラリーといったバレエ以外の授業もあって、新しい表現方法も得られました。

15年以上も続けてきたことを、しょんぼりしたまま辞めてしまったらよくないと思って、ぜんぶやり切って辞めることにした。それでも日本に帰ってきてからの数ヶ月間は閉じこもっていた。悲しいというより、どうやって生きていけばいいのかわからなかった。
●学校を卒業してからも、バレエをさらに極めようと考えていた?
高校2年の終わりくらいに病気が見つかってしまって、バレエを続けられなくなりました。それで、最後の1年間をかけてバレエに蹴りをつけたんです。
●どんな気持ちでしたか? 想像がおよびません。
いまも昔も、めちゃくちゃハッピーな人間なんですけど、その前後だけはあまり覚えていないくらいショックを受けていました。ただ、それまで15年以上も続けてきたことを、しょんぼりしたまま辞めてしまったらよくないと思って、ぜんぶやり切って辞めることにしたんです。まるでその先もバレエを続けられるみたいに一生懸命練習したり、出たかったコンクールに出たり、バレエ団のオーディションを受けてみたり。それでも日本に帰ってきてからの数ヶ月間は閉じこもっていました。悲しいというより、バレエしかやったことがなかったから、どうやって生きていけばいいのかわからなかった。
●人生そのものだったわけですもんね。
考えたすえ、バレエはお芝居に通じるところがあったから、お芝居を勉強してみようと決めました。それで、蜷川幸雄(※1)さんが名誉教授をしていた芸術系の短期大学に入ることに。日本での高卒資格を持っていなかったので、高卒認定をとり、そのあとすぐに受験しました。
※1:日本の演出家、映画監督、俳優。文化勲章。桐朋学園芸術短期大学名誉教授、文化功労者。
●宮﨑さんのなかでは“演じ表現する”というリンクがあったにしろ、異なる新しい分野でもあり。その違いについてはいかがでしたか?
やっぱり、その学校に通うみんなは少なからず小さい頃からお芝居をやってきたひとたちばかりだったので、追いつくのに必死でした。発声ひとつにしても基礎がないので、ひたすら声と向き合ったり。そうした難しさはありました。

それまでは、とにかく自分が頑張ればよかったけれど、お芝居の世界では、相手がいないと成立しない。そこが本当に向いてなくて、結局、お芝居は辞めてしまった。無意識的にバレエと比べていたところもあると思う。あれくらい熱中できるものを見つけなきゃって。
●アメリカの学校生活を経験したうえで改めて日本に戻ってきて、自分のなかで変化したことはありましたか?
アメリカの学校に馴染むより、むしろ日本の学校での人間関係に馴染むほうが大変でした……。それに、それまでは、とにかく自分が頑張って練習して上達すればよかったけれど、お芝居の世界では、相手がいないとそもそも稽古できない。そのうえ同じ熱量同士でないと成立しない。私は、思ったことを結構スパッと言っちゃうタイプなので、それで相手を泣かせちゃったりとか(笑) 本当に向いていなかったですね……。
●そうしたモヤモヤはどのように解消しましたか?
解消できなかったんです。それで結局、お芝居は辞めてしまいました。でもきっとそれはただの言い訳で、無意識的にバレエと比べてしまっていたんだと思います。あれくらい熱中できるものを見つけなきゃって。
●それからまた別の可能性を探して?
卒業前から「これじゃないな」と思いはじめて、「結局ダンスなのかも」って。それで、テーマパークのダンサーオーディションを受けてみたら、運良く受かって、しばらくは大学と並行しながらテーマパークダンサーをしていました。
●そこでは、違和感を感じることもなく、再び楽しさを見出すことができましたか?
私がバレリーナになりたかったように、テーマパークダンサーになりたくてずっとやってきた子たちが大勢いたので、そこの共通感覚みたいなものは感じていました。ダンス自体は、接客とダンスのあいだという感じもあるし、役によってはしゃべるので、演劇とダンスのあいだという感じもあるしで、それはそれで楽しかったですね。
●新しさと懐かしさのどちらもあるような。
やっぱり踊るのは楽しくて、改めて「好きだな」って思えました。でも、仕事としてはかなり過酷なんです。1回1時間以上、夏は体感温度40度くらいのなか踊り続け、冬は冬で凍えるほど寒い。ゴールで倒れ込んでしまうほどでした。そこで、また体の問題を突きつけられたというか、1年弱やって、最後は倒れてしまったんです。

心が完全に落ち込んだとき、なにかをイチから育て、収穫して食べることで、満たされることはきっと多い。だから、障がいのあるひとや高齢のひとだけじゃなく、人生や生活にちょっと違和感のあるひとたちが救われるような場所をつくりたいと思った。農業ならそれができる、とも。
●全身全霊で打ち込んでしまう性分は、バレエをやっていた頃と変わらなかったのですね。
バレエって寿命が短いので、歳を重ねることに焦りみたいなものがずっとありました。小学生の頃から、「やばい、もう小5だ……」みたいな。それが抜けなかったんですよね。「これもダメだったから、じゃあ次は?」って。でも、そのとき倒れて、そこでやっと、そろそろいい加減にしようと思えたんです。何度も繰り返してたら死んでしまうって。そのあとは、一般企業に勤めてみることにしました。とりあえずできることを探そうという方向に切り替えて、まずは健康に生きて、自分を立て直そうと。
●それまでのプライオリティをある意味かなぐり捨てたわけですね。うまく踏ん切りをつけて働くことができましたか?
とりあえずはそうですね。働くからには全力でやりましたし、学ぶことも多く、楽しく働くこともできました。それに、自分の芯はそれまで通り変わらなかった。上司が相手だろうと、おかしいと思うことには必ず意見しました。結果、1年しない内に旗艦店のマネージャーを任せてもらって。ただ、そうしているあいだも、自分が生涯やっていきたいことはなんだろうって、つねに考えてもいて。それが明確になったタイミングでその会社は辞めました。それから、イチゴ農園をやることに。
●当時なにを考えて、どういったきっかけではじめたのでしょう?
数年前、通り魔や放火など、無差別にひとが傷つけられる事件が多発したじゃないですか。そういうニュースを見るのがあまりにも辛くて、なにか自分にできることはないかと考えるようになったんです。考えるうち、問題は“社会”にある、“社会”に対して不満や疎外感を抱いてしまうことが暴力的な事件に結びついてしまうのではないか、と思うように。そして、もしそうなら、“社会”に対して疎外感を感じてしまうひとも、事件で犠牲になってしまうひとも、そのまわりのひとたちも、ぜんぶ救いたいと思った。ひとりの心が救えてたら、何人の心が傷つかないで済んだだろうって。同じ頃、兄から、「こんな農業をやろうと思うから、一緒にやってくれないか」と相談されたんです。話を聞くと、兄と私が考えていることは、違うことだけど、農業を通じてひとつにできる可能性があると感じて。
●というと?
兄は、なににも依存せず、生産者にも環境にもやさしい、農業と福祉の連携みたいなことをやりたいと考えていました。また、あるとき兄は1本の木を切って、すごく大きなものが倒れたことで、「自分もなにかをできる」みたいな実感を覚えたことも話してくれて。そこにも共感しました。心が完全に落ち込んじゃったとき、なにかをイチから育てて、収穫して食べることで、満たされることは多いと思う。だから、障がいのあるひとや高齢のひとだけじゃなく、人生や生活にちょっと違和感のあるひとたちが救われるような場所をつくりたいと思ったんです。農業ならそれができるって。それで、まずはハウスの立ち上げやさまざまな手続きなどの準備をして、2年後の2023年、ようやくイチゴをつくれるまでになりました。

バレエができなくなったとき、私は家族に助けられた。なにも訊かず、慰めるでもなく、ただ存在してくれる家族に。だから私は、“それ”になりたい。ぜんぶに向けて両手を広げて待っていられるファームになりたい。「大丈夫、あるよ」って、ただ。そして、その広げる手が、ちょっとずつ、ちょっとずつ大きくできたら。
●なにかに依存しないことや農福連携について、いま実現していることを具体的に教えてください。
たとえば、イチゴの栽培には冷暖房は使用せず、気温が生育に適している時期にしか栽培していません。水は井戸水を使っています。また、イチゴは高設ベンチで育てていて、腰をかがめたり膝をついたりすることなく作業ができます。そして、イチゴなら、トレイにパンパンに詰めても2kg程度なので、私の弱くなった体でも持てるし、1日中作業ができます。
●これから目指していることは?
私たちは、農業が、もっと多様な楽しみ方ができるような敷居の低いものになるようにとの想いを込めて、「カルチャー」の語源である「CULTIVATE」という会社名を掲げています。ファッションや音楽などと同じように、農業も、だれもがフラットに楽しめるハッピーなカルチャーになったらいいなと思っています。
●そんな風にぐっと農業と福祉の方へ入っていけたのは、宮﨑さん自身がバレエをできなくなって、心が落ち込んだ張本人だったからなのでしょうね。自分も“そっち側”だったかもしれないから、そこまで自分ごとにできたというか。
私はそのタイミングで、家族にめちゃくちゃ助けられました。なにも訊かず、慰めるでもなく、ただ存在してくれる家族に。だから私は立ち直れた。“それ”になりたいんです。ぜんぶに向けて両手を広げて待っていられるファームになりたい。「大丈夫、あるよ」って、ただ。その広げる手が、ちょっとずつ、ちょっとずつ大きくできたらと思っています。
●“仏”のお父さんみたいですね。
「ただ、いる」って、意外と難しいんですよね。やりすぎたり、言いすぎたりしがちです。だから私も、農福連携でやっていると大々的に言うことはしないし、「〇〇栽培です」みたいなことも言わない。なにごとにおいても、分断が生まれることが怖いから。「大規模農業=悪」「これはよくて、それは違う」みたいな風潮もいまあるけど、でも、それ要らないじゃん、って。ロックが格好よくてヒップホップはダサいの?って。ぜんぶいい、違っていいと思うんです。だからこれからも、自分がなにかを発信したとき、その裏側で傷つくひとがいないか?って、いつでも絶対考えていたいと思います。
Profile: 宮﨑 あゆみ Ayumi Miyazaki
合同会社CULTIVATE代表
群馬県嬬恋村にて、イチゴと高原野菜の生産・販売を行う。
Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : sayaka hori
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)
2025.1.24