sanako kato (27)
もちろん、産地や文化も大事だし、それを守ってつくり続けるひとのことも尊敬するけれど、でも、もっと個人を見てほしいと思う。「私みたいなひとがいたって、よくない?」って。
CHAPTER
今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を
CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地はどちらですか?
愛知県の名古屋市で生まれて、そのあとからはずっと瀬戸市で暮らしています。祖父の代から窯元で、実家の一部は工房になっています。
●幼少の頃、工房が遊び場だったりしましたか?
生まれたときには祖父はもう亡くなっていて、工房は父が使っていたのですが、けっこう放任タイプなので、「触りたいならやってみたら?」くらいの感じで。当たり前に土がある環境だったので、小さい頃は、一家に一台窯があるものだと思っていました(笑)
●そうして自然に触れながら、徐々に陶芸の道へ進んでいったのでしょうか?
いえ、小さい頃は遊び止まりで、陶芸をはじめたのは3年前のことなんです。

おいしいコーヒーを伝えたかった。名古屋には喫茶店文化がすごく根付いているけれど、浅煎りのフルーティなコーヒーは、とくに私が大学生だった当時、まだほとんど認知もなく、お店も少ない状態だった。だから、「私が伝えるぞ」って。
●それまでは、ほかに熱中していたことがあった?
一番は、コーヒーです。高校を卒業してからスターバックスで半年間アルバイトをして、コーヒーに強く興味を持ちはじめました。もっとしっかり学びたくなって、豊田市のワークベンチコーヒー(※1)の立ち上げに参加。そこで1年間働いて、そのあと、通い詰めていたトランクコーヒー(※2)で働くことに。トランクでは4年間働きました。
※1:愛知県豊田市に拠点を構え、自家焙煎を行うスペシャリティーコーヒー専門店。
※2:北欧スタイルのコーヒーが味わえる名古屋市のスペシャルティコーヒー専門店。
●そこまでハマった理由は?
たった一杯でひとを感動させられる経験をしたこと。でも、最終的には“味”ですね。浅煎りのなかでも、ホンジュラスやコスタリカみたいな、派手すぎず、毎日飲めるコーヒーがとくに好きでした。
●飲み手にとどまらず、コーヒー業界で活躍したいと考えたのはどうしてですか?
おいしいコーヒーを伝えたかった。名古屋って、昔からの喫茶店文化がいまでもすごく根付いているけど、浅煎りのフルーティなコーヒーは、とくに私が大学生だった当時、まだほとんど認知もなく、お店も少ない状態だった。だから、「私が伝えるぞ」って。
●使命感を覚えていたのですね。働くなかで、伝わった実感も持てていましたか?
お店の常連さんになってくれたり、コーヒーにハマって、そこからコーヒー好き同士で友達になっていったり、そういうみなさんの様子を見ていると、ちょっとは貢献できたかもなって。
●コミュニティーの広がりのようなものを感じていたのでしょうね。katoさん自身も同じように、コーヒー業界や社会と、積極的に関わっていこうとしていましたか?
そうですね。ワークベンチコーヒーで働いていたときにはとくにラテアートに興味があって、アメリカのナッシュビルで開催された世界大会に出ました。トランクコーヒーのときも、エアロプレスの大会に。また、東京のコーヒーフェスティバルやSCAJへの出展にも、積極的に参加していました。そうした場所場所で、コーヒー関係の方とも本当にたくさん出会うことができました。そこは大人たちの世界だったから、大学のなかにいるだけでは得られなかったはずのことを、たくさん得られました。
●行動力があったのですね。
ガツガツしてましたね(笑) 当時の私はバカだから、「私が一番若くて生き生きしてるし、私が出ればお客さんいっぱい来ます!」とか言って、出させてもらいました(笑)
若さを武器にして、使い切った。若くなにも知らない自分に、いろんな経験を与えてくれたトランクコーヒーのオーナー・鈴木さんと田中さんにはとても感謝しています。

考えるより前に手を動かしていた。自分が思いつくものを、デザインに起こすより、手を動かしながらそのままつくる感じ。いまも、めっちゃ直感型。
●そう言い切れるってすごいことです。大会などに出場することで得られたことはありますか?
そういうのは、日々のクオリティーにも関わってきます。私を含めたお店のみんながそうした場所で活躍することで、お店全体の質も上がってくる。
●大学を卒業してからもコーヒーを続けたのでしょうか?
そうですね、「コーヒーやるぞ!」って就活もしませんでした。あと、当時はコーヒーと並行して陶器のアクセサリーブランドをやっていました。自分でデザインしたピアスやリングを、父に窯で焼いてもらって。
●小さい頃に触れていた陶芸が、そこで戻ってくるわけですね。しかも、自分の作品として表現するところまで。自然にできたのでしょうか?
考えるより前に手を動かしていました。父もそういうタイプでしたね。自分が思いつくものを、デザインに起こすより、手を動かしながらそのままつくる感じ。いまもそうなんですけど。めっちゃ直感型です。
●手を動かしながら、わかっていったり気づいていったり。それは、コーヒーの仕事にも共通するところがあったりしますか?
コーヒーの大会のときなんかはまさにそうで、1回淹れてみて、飲んで、違ったら調整する。そういう感じは似ているかも。考える前に、やらなきゃわからないから。

カップが重すぎたり、取っ手が持ちにくかったりすると、飲み疲れてしまうことが多い。だから、コーヒーが入って初めて完成するものと考えてつくっている。バリスタも手に取りやすいように、エスプレッソカップなら、「ダブルショットまでしっかり入るサイズ」とか。そういうことがわかるのが、誰にも負けない私の強み。
●トランクコーヒーに4年間勤めたあと、それだけ好きだったコーヒーを辞めてしまったのはどうしてですか?
社会人1年目の夏、父の癌が発覚して、余命3ヶ月の宣告を受けたんです。それまでは継ぐつもりなんてなかったんですけど、一人っ子だったのもあって、「やったほうがいいかもしれない」って。父はそれから3年間生きられて、そのあいだに、技術をぜんぶ教えてもらいました。
●小さい頃に当たり前と思っていた環境が、そのときになって、ちょっと特別なことのように思えたりもしたのでしょうね。
本当にそう思いました。「なんでも揃ってるじゃん!」って。周りには陶芸家になりたいという子もいましたが、学校に通って技術を身につけたとしても、環境がないと、簡単にははじめられないですから。
●ある程度状況に押されてではあったにせよ、コーヒーの道から離れることに、割り切れない気持ちはありませんでしたか?
すごく好きだったので、辛かったです。でも、「やり切った」って気持ちもあった。作家になるときには、「絶対にコーヒー屋さんのカップをつくるぞ」って心に決めたんです。実際そのあと、大学生の頃から一番好きだったコーヒーカウンティ(※3)のオーナーさんから、東京出店のためにコーヒーカップをつくってほしいとお願いされて。そのときは本当にうれしかった。そんな風にいまでもコーヒーと関わって、自分の存在を表現できているので、いまはすごく幸せです。
※3:福岡を拠点とするスペシャルティコーヒーのロースタリー。福岡県久留米市と福岡市にカフェ&ロースタリー、福岡市にベーカリー「COFFEE COUNTY stock」を、2023年には東京・池ノ上に「COFFEE COUNTY Tokyo」をオープン。
●それまでコーヒーの世界にいたからこそ、表現できたこともありますか?
私は、カップが重すぎたり、取っ手が持ちにくかったりすると、飲み疲れてしまうことが多いんです。だから、コーヒーが入って初めて完成するものと考えて、なるべくパッと手に取れる感じを心がけています。あと、バリスタさんも手に取りやすいように。エスプレッソカップなら、「ダブルショットまでしっかり入るサイズ」とか。そういうことが、「口径何センチで」とかって伝えてもらわなくてもわかるから、それが誰にも負けない私の強みです。

もちろん、産地や文化も大事だし、それを守ってつくり続けるひとのことも尊敬するけれど、でも、もっと個人を見てほしいと思う。「私みたいなひとがいたって、よくない?」って。
●反対に、苦労したことはありますか?
苦労というのではないですが、どうしても、“瀬戸焼”に対する凝り固まったイメージがあること。「瀬戸焼っぽくないね」なんて言われることもあります。もちろん、産地や文化も大事だし、それを守ってつくり続けるひとのことも尊敬するけれど、でも、もっと個人を見てほしいと思います。「私みたいなひとがいたって、よくない?」って。
●実際、katoさんのつくる器からはそれを取り払うような軽やかさが感じられますね。ただ、そうすると自然と、“私”というものがフォーカスされると思います。自身を磨く必要が出てくるというか。
その通りだと思います。だからいまは、いろんな土地へ足を運んで、いろんなものを目で見て、経験しようと心がけています。先日は、パリやデンマークへ行きました。色や質感など、日本にはないものがあって、考えてもいなかったことを発見できる。
●そうしたkatoさんらしさを好きになってくれるひとももちろんいるわけですよね。
嬉しいことに、どんどんお客さんも増えています。カップの取り扱い先のコーヒー屋さんで知ってくれたコーヒー好きもいれば、雑貨が好きな女の子が見つけて個展へ来てくれたりも。
●お客さんの反応も含め、ひととのコミュニケーションや海外での経験など、そうしたことに呼応することも大事にしている?
そうですね。父は、そういうのがぜんぜん得意じゃない、絵に描いたように頑固で作家気質なひとだったので、「もっとこうしたらいいのに」って当時から思っていました。
●窯を継ぐことになったとき、お父さんはどんな反応だったのでしょう?
陶芸を継ぎたいと初めて父に伝えたときは、「そんなに簡単なものじゃない」と強く言われました。でも、毎日作陶していると、だんだんと父もアドバイスなどをくれるようになって、1年後には作家として作品を販売することができるように。そして父が亡くなる1週間前に開催した個展が終わった後、結果を報告したら、「やるじゃん」って言ってくれて。嬉しかったですね。まだ技術面で父には到底及ばないですが、売り方とかそういうのは、どこか認めてくれていたようでした。もっと頑張っていきたいと思います。「やるじゃん」って言ってもらえるように。
Profile:sanako kato
1998年、愛知県瀬戸市出身
祖父と父は陶芸作家、家は窯元という環境で育つ。
大学生活と並行して名古屋市内でバリスタを経験したのち、家業である陶芸を一から学び陶芸作家の道へ。
コーヒー業界にいたこともありコーヒー屋のカップ作成や全国各地で個展などを行っている。
マーブル模様や緩やかな曲線をイメージし、伝統にとらわれ過ぎず、自由な作品を作陶している。
Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : mitsuharu yamamura(BOOKLUCK)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)
2025.3.31