CHAPTER vol.47【EAT】

佐藤 大晟 (24)

バリスタ

うれしかったのは、日本へ帰ってきた途端、「パリに戻りたい」って思ったこと。ほんとうに毎日壮絶だったし、日本を居心地よく感じたりもするのかなって思っていた。でも、自分から進んで、あの地獄を求めている。それがすごくうれしい。

CHAPTER

今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を

CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地はどちらですか? どんな子ども時代でしたか?
青森県出身です。小学校低学年までは、とにかくだれよりもお喋りだったし、ひとの言うことを聞けない子どもでした。周りからも常に浮いていたというか、客観的に見てもヘンな子どもだったと思います。

●ひとに合わせたりするより、自分のしたいことや好きに正直だった?
型にはまるのは苦手だったと思います。「この時間からこの時間まで〇〇をする」みたいなのことも苦手で、ルールのなかで動くことができなかった。むしろ、ルールをどう破るかみたいなことばかり考えていました。

●具体的に教えてください。
たとえば、その頃の遊び場って、教室や体育館や校庭などありますが、それ以外の場所でいかに遊べるかを考えるのが楽しかった。学校のなかぜんぶを使って鬼ごっこをする、とか。


サッカー以外で人生を楽しみたくなかったんだと思う。しようと思えば、クラスの子と仲良くすることもできた。でもそうやって楽しんでいる自分を見たくなかった。


●当時夢中だったことはありますか?
小学校4年生のときにサッカーをはじめて、それから9年間、人生のすべてがサッカーでした。ただ、下手だったんです。試合にも出られず、ずっとベンチだった。

●部活という環境って、まさに周りと合わせるようなことが多いと思いますが、そのあたりに難しさは感じなかったのでしょうか?
その頃の僕は、めちゃくちゃ調子に乗るタイプだし、自己肯定感も基本的には強かったんです。でも、スポーツは自分にとって圧倒的に苦手分野で。とくにサッカー部って、学校のなかでも一軍みたいなひとたちが集まる場所なので、そのなかで、自分がなにもできないのは苦しかったですね。一方で、自分が格好いいと思ったり面白いと思ったりする友達と積極的に関わるのは好きだった。その点では、つねに周りにはそういうひとたちがいて、楽しかったですね。

●サッカーという競技には苦手意識を持ちながらも、でもその環境を総じてネガティブに捉えてはいなかったと。
ただ、ちょっとずつ自己肯定感は落ちていきました。中学に入ってからもどんどん自信がなくなっていって、高校時代はいちばんひどかったですね。授業中もずっと寝ていて、ひととまともに話せないレベルでした。

●そこから、どのように抜け出していったのでしょう?
高校の担任の先生がきっかけです。ドラマに出てくる超熱血教師みたいなひとで、まわりと関わらないようにしていた僕に、めちゃくちゃ関わってくるんです。そうすると、クラスのなかでもちょっといじられキャラみたいになってきて、目立とうとしない行動もぜんぶ目立つ行動になってしまった。それを嫌だなとも思いつつ、関わってくれることはすごく嬉しくもありました。それでも、自分から積極的に関わっていくことはなかったですが。

●どうしてそれほどまでに関わりを避けていたのか、振り返るとどう思いますか?
サッカー以外で人生を楽しみたくなかったんだと思います。しようと思えば、クラスの子と仲良くすることもできた。でもそうやって楽しんでいる自分を見たくなかったんです。


これは苦手なフィールドだ、って一瞬で気づいた。ただ、9年間やってきたサッカーに比べたらマシだし、ぜんぜん通用しないけど、余裕だな、とも感じた。だれよりも怒られたけど、それは別に気にならなかった。


●それほどまでに人生そのものだったサッカーを辞めた理由は?
高校3年の最後の試合が、ぜんぜんダメだったんです。特別強くもないチームに負けて、本当にあっけなく終わった。そのときに、ぜんぶ吹っ切れたというか。それからは、サッカーに代わるなにかを見つけるために環境をかえてみようと思って、青森から出て東京の大学に行くことに決めました。親や友達からは、反対されたというか、「大晟には無理だよ、変われない」って。でも、当時もやっぱり根拠のない自信だけはあったんです。いままでは一番苦手なサッカーの世界にいたけど、そうじゃなければ結構やれるよ、みたいな。

●上京して大学に通いはじめて、実際に大きく変わったことはありますか?
初めてのアルバイトでスターバックスに入ってから、サッカーみたいに、それが人生のすべてになりました。

●スターバックスを選んだ理由やきっかけは?
お母さんがスタバを大好きだったんです。高校3年生の頃にサッカーの試合に迎えに来てくれるときなんかも、スタバ飲みながら車で待ってくれてたりして。ただ、僕はその頃、カフェとかコーヒーの価値がまったくわからなかったんです。「これ600円もすんの? 金の無駄だから辞めたようがいいよ」みたいなこと言って。でもあるとき、「今日の店員さんがものすごくよかったんだよね」って、お母さんがなんだかめちゃくちゃ感動してて。それがすごく印象的だった。お母さん感動させてるそいつは何者なんだ?って。同時に、すごいとは思うけど、たぶん俺はもっとできる、とも思ったんです。そのときも、ヘンな自信だけはあって(笑)

●働きはじめて、どうでしたか?
それが、とんでもなく仕事ができなくて……。店長からも、「これまで見てきたなかでトップ5に入る“不器用さ”だよ」って(笑) これ、苦手なフィールドだ!って一瞬で気づいたんですけど、ただ、9年間やってきたサッカーに比べたらマシだし、ぜんぜん通用しないけど、余裕だな、とも感じました。だれよりも怒られたけど、それは別に気にならなかった。

●それでも続けたいと思えるポジティブな気持ちもありましたか?
ドリンクをちゃんとつくれるようになるのは楽しかったですね。そういうのは、もともとができない分、みんなより何倍も楽しめていた気がします。接客も楽しかったですね。子どもの頃からおしゃべりで、ひとと話すのは好きなので、ドリンクを介して知らないひとと繋がれることがすごくうれしかった。


同じ値段を払ってるのに、お客さんをこんなに喜ばせられる店長ってすごいな、と思った。


●サッカーに代わる人生のすべてになったのには、きっかけがありますか?
あるとき、店長がつくったドリンクを僕が仕上げて提供するポジションに入っていました。「大晟、これ出して」って渡されたラテに、めちゃくちゃ綺麗なハートのラテアートが描かれていたんです。で、それをお客さんに渡したら、見たことないくらい笑顔になってくれて。同じ値段を払ってるのに、お客さんをこんなに喜ばせられる店長ってすごいな、と思いました。そのあたりからラテアートにハマって、シフト以外の時間にも練習したり、スタバ以外のカフェを巡るようになったりして。

●スターバックスだけじゃない、コーヒー業界に広く目が向くようになったと。
2年が経った頃には、すっかり、本格的にコーヒーの道に進みたいと思うようになっていました。それから、スタバは半年後に辞めることに決めて、カフェを300店舗くらいまわりました。そんなある日、「連れて行きたいところがある」って当時お世話になっていた先輩に連れて行かれたのが、代々木のコーヒースタンドでした。コーヒーの道を目指す僕のことを先輩が紹介してくれて、そして、その店で働くことになりました。

●同じカフェでも、スターバックスとはまた違った環境でしたか?
そうですね、とにかくスタバのとき以上にボロクソでした……(笑) 自分に向いている環境じゃないのは最初からわかってたけど、でもやるしかない、ここで絶対うまくやってやる、と思って、でもずっと低いところにいましたね。結局、3、4ヶ月後に辞めることになるんです。以前そこで働いていたベテランのひとがオーストラリアから帰国するから、働く場所をつくってあげたい、とオーナーから言われて。実質、戦力外通告でした。

●そのときの心境はどうでしたか?
不思議と悔しくなかったんです。どちらかというと心が軽くなった感じがして。とにかくなにか新しいことを探さないとと思っていたら、インスタで、新しく下北沢にオープンするベルヴィル(※1)っていう店のオープニングスタッフ募集の投稿を見つけました。それで、応募して働くことに。ただ、オープニングまでには数ヶ月自由な時間があったので、そこで、蜃気楼珈琲(※2)という間借りカフェに出店するができました。出店して自分でコーヒーを淹れてみると、やっぱり俺は向いてるかも、ってまた自信が湧いてきました。

※1:フランスで設立されたスペシャルティコーヒー豆専門の焙煎所。本国パリで選び抜かれたコーヒー豆を楽しめる。

※2:井の頭線「富士見ヶ丘駅」すぐそば。曜日替わりで店主が変わるシェアリングコーヒーショップ。

●どんな苦境に立たされても、いつも根っこにある自信だけは変わらなかったのですね。
すごくたくさんのひとが来てくれたんです。そのときはたしか20歳か21歳でしたが、周りに自分でそういう活動をしている友達はいないし、スタバ時代に「いつかカフェ開く」って宣言してたのを聞いてた友人たちもいたので、そういうひとたちが、全員来てくれて。


なによりキツかったのは、コーヒーのおいしさがわからなくなっていたこと。自分がそもそもおいしいと感じてないコーヒーを、それでも出し続けなきゃいけなかった。


●改めてコーヒーの世界への希望も感じながら、新しい店へ。
そこからまた、めっちゃ落ちます(笑) ベルヴィルも、結構大変だったんです。デキる先輩しかいなくて、店長もかなり厳しいひとだった。その頃は、週1でキャメルバック、週5でベルヴィルに立ちながら、おまけに、蜃気楼珈琲を借りて毎週自分の店も開けていたんです。だから、頭のなかからお店のことが一生離れないんですよ。プレッシャーで押しつぶされそうになっていました。そんななか、なによりキツかったのは、コーヒーのおいしさがわからなくなっていたこと。自分がそもそもおいしいと感じてないコーヒーを、それでも出し続けなきゃいけなかった。

●その状況は、どうやって解決したのですか?
久しぶりにあった休みの日に、蔵前にある蕪木(※3)というコーヒー屋さんに行ったんです。そこで飲んだコーヒーを、1ヶ月ぶりくらいに「おいしい」って思った。コーヒーを好きな気持ちも思い出して、そこから変わった気がしますね。話は変わりますが、高校の頃に読んだ本がきっかけで、それからずっと、パリに行きたいと思っていました。初めて行く海外っていうのになぜかこだわりもあって、行くなら絶対パリだし、しかも旅行とかじゃなくて、住むために行きたいと思っていて。友人や知人にもことあるごとに口に出していました。で、蜃気楼珈琲を辞める1週間前に、アパートを解約したんです。

※3:東京・蔵前にて珈琲豆の焙煎販売とチョコレート製造販売を行う。併設の喫茶室では、珈琲とチョコレート、それにあわせた酒類も楽しめる。

●パリへ行くために?
その時点では、パリ行きが確定していたわけではないんです。ただ、行かなきゃいけない環境を無理やりにでもつくろうと。日本をいかに居心地悪くできるかが勝負だと思って、海外に行けるまではキャリーケースひとつで、家は借りずに生活しました。半年後、通っていたコーヒー屋のオーナーさんが、パリにあるコーヒー屋さんに募集が出ているって教えてくれて、それで、2024年4月からパリへ行って働くことに。


うれしかったのは、帰ってきた途端、「パリに戻りたい」って思ったこと。ほんとうに毎日壮絶だったし、日本を居心地よく感じたりもするのかなって思っていた。でも、自分から進んで、あの地獄を求めている。それがすごくうれしい。


●そこは、どんなお店ですか?
いちばんの特徴は、ほんとうにいろんな種類のひとたちが集まる場所だということ。とくに、クリエイターやファッション業界のひとたちなど、さまざまなジャンルの文化的なひとたちが集まってくる。

●そうした環境を狙った店づくりをしているのでしょうか?
オーナーも、そうしたひとたちにとっての居場所をつくりたいと、そもそも考えていたみたいです。コーヒーがおいしいのは当たり前。むしろ、それ以外へのこだわりがめちゃくちゃ強くて。しかも、その道の一流のひとたちにも響くレベルを、いろんな要素で実現している。スタッフの着る服や、テーブルや椅子、内装とか。なにかにこだわりを持って生きているひとたちは、きっと、そうしたことに自然と気づくんだと思います。

●佐藤さん自身も、店のそうしたところに惹かれた? たとえば日本で巡っていたさまざまなコーヒー屋も、そうした目線で眺めていたのでしょうか?
いえ、日本にいるときには、むしろ、そういうことにまったくこだわることができていなかった方です。だからパリのコーヒー屋さんに最初に行ったときも、ぜんぜんわからなくて、働くうちに少しずつ、そうした違いが見えるようになってきました。でも、振り返ってみたとき、日本で通っていた店に久しぶりに行ってみたりすると、かかっている音楽がよかったり、空間へのこだわりが見て取れたりするんです。気づかないうちに、カラダでは選んでいたのかもしれない。だからこそ、いま後悔しているのは、日本のそうした店に通い詰めなかったこと。なにがいいのかを、もっと追求しておくべきだったなって。

●バリスタという面でも、これまでと違うことや、新しいステップアップはありますか?
人生のなかで、とにかく、いまがいちばんキツくて。これまででいちばん頑張っているのに、なにも結果が出ない、みたいな時期がずっと続いています。そんななか、いま、店の先輩たちの期待を超えられず、信用を裏切ってしまった状態で日本に一時帰国(取材時点)しているんです。うれしかったのは、帰ってきた途端、「向こうに戻りたい」って思ったこと。ほんとうに毎日壮絶だったし、日本を居心地よく感じたりもするのかなって思っていたんです。でも、自分から進んで、あの地獄を求めている。それがすごくうれしいんです。


自分の周りにいる魅力的なひとたち全員と対等に話したい。そのためには、もっと強くならなきゃいけない。そういうひとたちに認められる自分になって、それで初めて、スタートに立てる。


●このあとパリに戻ってからの目標はありますか?
仕事以外の時間を、フルに遊ぼうと思っています。朝から夜まで働き詰めで、正直時間なんてないんですけど、自分でも、「仕事、仕事」って心にブレーキをかけていた部分があります。でも、やっぱり仕事以外の時間が、そのひとの魅力を引き出すと思うから。オーナーからも、「もっと遊べ」っていつも言われているんです。

●音楽を聴いたり、展示を観たり、ひとに会ったり?
それもあります。あと、先輩から言われて覚えてるのは、「いいサービスを受けた人間じゃないと、いいサービスはできない」という言葉。そうしたところも、もっと体験していきたいですね。

●これまで何度も苦境や苦難を経験しながら、それでもそうした状況を自ら進んで求め続けられる、その理由は何なのでしょう?
自分の周りにいるすごく魅力的なひとたちって、だいたい、どん底まで落ちた経験のあるひとなんです。最近、それを“死んだことがある”って表現して友達とも話していたんですけど、たとえば目が違うんですよ。孤独とか儚さが宿ってるというか。いくらでも逃げ道はあると思うんです。でも、“死ぬ”ってわかってても突っ込める強さや覚悟がある、そういうひとに僕はすごく惹かれるんです。だから、自分がこれからなにをしたいかって聞かれたら、ただただもっと面白いひとと会ってみたい、それだけしかなくて。そのためにパリで頑張るし、いつかは自分のカフェを開きたいと思う。

●そのために、いまはひたすら孤独に頑張るしかないと。
そういう魅力的なひとたち全員と対等に話したいんです。そのためには、もっと強くならなきゃいけない。いまは相手にされない、見向きもされないはずなので。そういうひとたちに認められる自分になって、それで初めて、スタートに立てると思っています。



Profile: 佐藤 大晟 Taisei Sato

2001年生まれ。
昨年からバリスタとしてパリのコーヒー屋さんで働いている。
将来の夢は青森、東京、そして海外の3拠店にお店を持って活動し、そこで出会った人達と一緒に映画をつくること。

Instagram


Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : sayaka hori
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)


2025.9.9