工藤 海 (26)
ひとを感動させて、その記憶に残って、人生を変える力があるもの。それは、“つくり続けてきたもの”だと思う。たとえば、フラットホワイトをつくり続けるとか、ハンドドリップをとにかくおいしく淹れるとか。ありきたりな言葉だが、「神は細部に宿る」。いまはそれがいいなって。
CHAPTER
今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を
CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。

●出身地はどちらですか? どんな子ども時代を送りましたか?
生まれたのは神奈川県の横浜で、すぐに相模原の方に引っ越しました。正直、子どもの頃も含めて、あまり人生の記憶がないのですが、1歳前後のときには父親はいなくて、シングルマザーでした。いろんなひとに助けられながら育った感覚はありますね。3歳くらいからは秋田のおばあちゃんちにしばらく住んだりして。その秋田にいた頃の記憶が、いちばん残っているかも。
●それはどんな記憶ですか?
おじいちゃんと田んぼを散歩したり、夜泣いていたら軽トラで星を見に連れていってくれたりとか。魚釣りした記憶とか、犬を散歩している途中で逃げられて、走って探したこととか。そういう断片的な記憶が、すごく残っている感じです。自分というものは記憶の積み重ねだと思っていますが、記憶していることは少ないけれど、でも大事にしている鮮明な記憶もあって。だから、おじいちゃんおばあちゃんには感謝しています。
●秋田は、きっと横浜や相模原とはまったく違う環境だったと思いますが、その、場所の気持ちよさみたいなものも印象に残っていますか?
感じていましたね。車の隙間から入ってくる風とか、朝の鶏の声とか。
●ほかに、どんなひとに助けられたことを覚えていますか?
小学生になる頃には、相模原の方へ戻っていて、友達の半分以上は母子家庭みたいなエリアだったのですが、たまたまかもしれませんが、どこか心に隙間のあるような子が多かった。そういう子達や家族と、助け合って生きていた感覚があります。家に帰れない日に友達の家でご飯を食べるとか、少年野球で勝ったらみんなの両親と町中華でご飯食べるとか。同じ鍋をみんなでつついて、みたいなのがわりと日常でした。
●では、まわりと比べたり、引け目を感じたりすることも少なかった?
まったくなかったかもしれません。それが当たり前という感じでしたし。母に対しても、育ててくれてありがとうという気持ちでした。

野球を辞めたらダメな方に行っちゃってたと思う。そういうふうにして“違う方”へ行っちゃう友達もいたし、そっちには行きたくないと思っていた。
●その頃、とくに夢中だったことはありますか?
小学校に入ってから野球をはじめました。それはすごく大きかったですね。毎回県大会に出られるくらいの強いチームでした。
●大きかったというのは、友人関係や人格形成に、ということですか?
そうですね。小2のときに母が再婚して、野球は、その育ての父親の影響ではじめたんです。「泣き虫だから野球やれ」って言われて。実際、野球をはじめる前は、太っていて、結構いじめられてもいたんです。でも、野球をはじめてからは体も強くなって、友達もできるようになって、そのなかでついた自信もありますね。そのまま高校卒業まで、かなり打ち込みました。ただ、本当は野球で私立高校に行きたかったんですけど、肝心なタイミングで骨折しちゃって。それで、勉強に切り替えて、受験して公立高校に入りました。
●骨折によって、ある意味挫折を味わったわけですよね。そのときの気持ちは覚えていますか?
ポジティブに考えるしかない、って思いました。怪我をしてからも、卒業までは野球を続けたんです。痛くて練習に出られない日があっても、接骨院に毎日通いながら。野球だけだったんです、自分を守ってくれるみたいなものが。
●自分を守ってくれる、というと
辞めたらダメな方に行っちゃってたと思うんです。そういうふうにして“違う方”へ行っちゃう友達もいましたし、そっちには行きたくないと思っていた。

高校受験も大学受験も自分で決めました。自分で決めて、自分で責任を取る、という感じの生き方だった。それがいいことだとは思いません。ぜんぶ自己責任になってしまうから。「自由に選んでいいよ」っていうのは、本当は自由ではないと思う。
●野球をやることで自分の手綱を引いていたというか。アイデンティティみたいなところがあったのでしょうね。
そうかもしれません。でも、その頃には好きなことがほかにもできて、そのひとつが映画でした。当時、TSUTAYAが5本1000円でレンタルできるみたいなのをやっていて、部活の帰りに借りて帰っていました。映画も救いでした。
●野球と映画の、いわば両輪があることで、自分自身が救われていたと。
1日の終わりにちゃんと楽しみがある、っていうような感覚でした。育ての父親は、高校生の頃にはもう離婚していて、お母さんもあまり家にいられなかったので、野球を頑張って、自分でお弁当を作って、ユニフォーム洗ったら、そこからフリー。映画を観たり、彼女とデートしたり、友達と夜に出かけたりしていました。部活だけって感じではなかったですね。
●どちらかを辞めてどちらかにする、というようなことではなかったわけですね。
はい。そういうのが好きなんです。いまもバリスタをやりながらも、コーヒーだけをやっていたんじゃダメだ、って思っているところがあります。
●家庭環境は別として、自分で、なにをするか、なにを選ぶか、などを決めるシチュエーションもしばしばあったのでしょうか?
それがほとんどでしたね。お母さんは、ある意味友達みたいな存在で、“世話をする母”という感じではかった。困ったときに相談もしてくれるし、「勉強しろ」って言われることは一度もなかった。高校受験も大学受験も自分で決めました。自分で決めて、自分で責任を取る、という感じの生き方だった。それがいいことだとは思いませんが。
●なぜですか?
ぜんぶ自己責任になってしまうからです。「自由に選んでいいよ」っていうのは、本当は自由ではないと思う。とくに、子どもは知っていることも少ないじゃないですか。僕も野球しか知らなかったから野球をやったわけで。バレエ、書道、ダンス、写真を撮るとか、いろんな文化があるなかで、自分の子どもには、たくさんの経験をさせたうえで、相談しながら、家族の一員として選択させてあげたい。子どもや若いときは複雑な感情で日々迷い、苦しい。そういう時期に導いてくれる大人が必要だと思っています。
●野球を手放してしまったらほかにない、と考えていたのも、まさにそこに根本がありそうです。いろんな価値観や生き方があるということを教えてくれるひとが、まわりにいなかった。
そういう感覚でした。そういう意味では、映画や音楽、本が、“先生”であり道しるべみたいなものでした。

産みの親にたくさんのことを教えてもらった。お酒の飲み方、飲食店の選び方、音楽のこと。一緒にクラブに行ったり、温泉に行ったり。好きなことをして生きている大人が、まさに親父だった。
●そういった意味では、将来なりたい姿みたいなものも見えてきていなかった?
なにになりたいというよりは、好きなことをしていたい、みたいなことは考えていました。小学生のとき、育ての父親から、「俺は家族のために働いてる。だからお前も家庭のことをしろ」みたいに言われて、家庭ができたいまは、その言葉の意味が痛いほどわかりますが、当時は、別に働いてなんて頼んでないし、仕事でのストレスを家にまで持ち込んでほしくなかった。だから、僕は、外でも家でも楽しくいたいと思っていました。
●高校を卒業してからのことについて聞かせてください。
大学へ入りました。その頃、大きな出来事があって。産みの親に会いに行けたんです。高校生のときにはお母さんは育ての父親と離婚していたので、「もう会いに行っていいよ」と言われて。会いに行ってみると、「会ったことある」って直感的に感じました。しかも、ずっと一緒にいたかのように話が合うんです。
●どんな時間を過ごしましたか?
横浜で焼き鳥屋さんを経営しているんですけど、いろんな飲食店に連れて行ってもらいながら、たくさんのことを教えてもらいました。お酒の飲み方、飲食店の選び方、音楽のこと。一緒にクラブに行ったり、温泉に行ったりもしました。好きなことをして生きている大人が、まさに親父だったんです。
●欲していた価値観や生き方を教えてくれるひとだったのでしょうね。
まず、会うたびに本をくれました。あと、おしゃべりな僕がいろいろと話していると、ひと言だけぼそっと言うんです。お金を稼ぎたいみたいなことを言ったときは、「ひとを幸せにした分だけしか、ひとは稼がないほうがいい」みたいなことを言っていました。自分は当時、黒の服しか着てなくて。楽だしお金もかからないし、やりたいことに集中できると思っていたんです。そしたら、「洋服を選ぶ時間とか、なにを着るかとか、そういうのも含めて生きるってことだから。無駄だけど、それがいいんだよ」みたいなことをさらっと言うんです。それからは黒の服を着なくなりました。親父なりの哲学みたいなものをたくさん教わりました。
●父親がいなかったことに引け目は感じていなかったものの、でも実際は、大切で必要な存在だった。
導いてくれる存在ですね。でも、いまの僕は、その頃まで親父がいなかったからあるわけで。いなかったから、反骨精神みたいなものも育てられた気がします。

飲食が好きだった。お客さんとの距離が近くて、自分でつくったものを提供できて、そしてリアクションがすぐに見られるのが、性に合っていた。体を動かして働けるのもよかった。
●大学時代にとくに力を注いだことはありますか?
たくさん働きました。親父に影響されて、まずは国分寺のダイニングバーでアルバイトをはじめて。ジムトレーナー、結婚式のプランニング、スーツの販売も同時並行しました。
●そこまでアルバイトに打ち込んだ理由は?
親父を見て、お店をやりたいというか、経営者になりたいと思ったんです。大学では経営学を学んでいましたが、そこで学ぶことには、リアルさを感じなかった。だから、知識よりもとにかく働くことだと思いました。お客さんがどうしたら喜んでくれるか、自分はどんな仕事を好きなのか、そうしたことを試していたんです。
●なかでも楽しみややりがいを感じられたのはどんな仕事ですか?
飲食が好きでしたね。お客さんとの距離が近くて、自分でつくったものを提供できて、そしてリアクションがすぐに見られるのが、性に合っていました。体を動かして働けるのもよかった。
●経営者になりたいという気持ちの反面、そうした、現場で起きる、ひととの手触りのあるコミュニケーションに魅力を感じていたわけですね。その両面があった。
お父さんが料理人で、おじいちゃんが大工だったこともあって、職人に憧れていたのもあります。その後、大学の講義に、Paul Bassett出身でLife Size Cribeオーナーバリスタが特別講師として来てくれたのですが、そのひとと出会ってからいまの道に進みはじめました。タトゥーがごりごり入っていて、話す言葉にはすごく重みがあって、リアルだった。「本物だ」っていう感覚がありました。こういうひとになりたいと思った。そこから、彼のやっているロースターに通うようになったんです。
●そのお店も同じように魅力的だった?
それまで知っていたどのコーヒーショップとも違いました。コーヒー自体もおいしかったですが、なにより、バイカーとか、ヒップホップやダンスが好きなひととか、そういう大人たちが溜まっていて、怖かった(笑) でも、その入りにくさや居心地の悪さが、すごくカッコよかったんです。いつしかそのバリスタに、大学を辞めて飲食をやりたいと相談するようになっていて、働き先を紹介してもらいました。コーヒーではなく、バーだったんですけど。

おいしい料理をつくるとか、カッコいい椅子をつくるとか、自分のからだを使ってなにかを表現して、それが目に見えるだれかのためになる方がいい。
●大学の経営学の授業はリアルじゃなかった一方で、そのバリスタの話はリアルだった。その違いは何だったのでしょう?
それはいまも考えることなんですけど、たとえば携帯電話とか、だれがつくったかもわからないものにばかり頼りたくないというか。目の前の画面だけを使ってお金を稼ぐとかじゃなく、相手の顔が見える範囲で仕事をしたい。おいしい料理をつくるとか、カッコいい椅子をつくるとか、自分のからだを使ってなにかを表現して、目に見えるだれかのためになる方がいい。そうして働いているひとの言葉は、リアルに響きます。
●自分の手を動かして、触れられるくらいの距離にいるだれかの心を動かしたい、というわけですね。バーで働きはじめてからのことを教えてください。
働いていた2年も、あまり記憶がないんです。ほとんど休みなく働いて、店のなかでダンボールで寝たりしていた。でも、すごく偉大な先輩たちに恵まれました。世界一のバーテンダーや、いまカッコいい店をいくつか経営しているひとなど、彼らから、仕事論や人間的な部分をがっつり吸収しました。ただ、怒られてばかりで、残念ながらいい辞め方もできず、たくさん迷惑を掛けてしまいました。彼らにはとても感謝しているので、いつか恩返しできるように、いいお店をつくるのが僕の夢です。
●父親に教わったのと同じようなことを、そこでも教わったのですね。
あるとき、師匠に「きみの強みは何だと思う?」って聞かれて答えられず、めちゃくちゃ怒られました。でも、「情報だよ」って教えてくれて。自分は当時20歳でしたが、3、40代のお客さんとも難なく話せていたんです。それは、寝る時間がなくても常に雑誌を読んだり、世の中の話題に触れようとしていたから。文化的なひとが来ても、「〇〇さん」ってすぐにわかる、みたいなことも評価してくれて。自分のなかでは特別なことだと思ってなかったのですが、「それじゃ、銃を持ってるのに、使い方がわからず振り回してるだけだ」って叱ってくれました。また別のとき、その先輩が、「酒なんて飲まなくても生きていけるよね」みたいなことを飲みの席で話していて。「でも、これがあるから生きていけるんだよね」って。無駄こそが豊かさだ、っていうのは、親父にも教わったことですし、いまの自分も大切にしている価値観です。
●記憶はないと言いつつ、父親の言葉や先輩の言葉などは、はっきり覚えていますね。そのバーを辞めたのはどうしてですか?
20歳のときに子どもが産まれていたんです。なのに、仕事ばかりで、家族と向き合えていなかった。未熟で、無責任でした。なんとかしないといけないと心では思いつつ、目の前の仕事は休めない。そうして徐々にパフォーマンスが落ちてしまっていました。

ひとを感動させて、その記憶に残って、人生を変える力があるもの。それは、“つくり続けてきたもの”だと思う。たとえば、フラットホワイトをつくり続けるとか、ハンドドリップをとにかくおいしく淹れるとか。ありきたりな言葉だが、「神は細部に宿る」。いまはそれがいいなって。
●身動きが取れない状況ですね。
奥さんには本当に感謝しています。毎日喧嘩しながらも、でもちゃんと話をしてくれて、相談にも乗ってくれました。そのバーを辞めてからも、とにかく生活のために働きました。料理人をやったり、日雇いや派遣の仕事をしたり。本当はやりたくない仕事もあったし、自分の夢は一旦ゼロになりましたが、でも、結局はコーヒーの仕事に行き着いたんです。コーヒーなら昼間に働けて、太陽とともに生活できた。自分のやりたいことにもフィットしていました。何軒かで働いたあとで、現在いるNo.に。
●回り回って、日々、自分でつくったコーヒーを手渡ししながら、マネージャーとして経営的な立場で働いているわけですね。
どの程度経営と言えるかはわかりませんが。いまは、チームをつくるとか、みんなが楽しく働ける仕組みづくりについて、学んで実践しているフェーズです。僕が入ってからも、ひとが結構辞めちゃったりしていて、定着しない問題にぶち当たっていて。それってきっと自分のせいだし、もちろん自分だけでカッコいい店をつくることはできないので、それを痛感しながら、みんなが個性を発揮しながら楽しく働ける環境づくりに挑戦しています。
●いまは、家族のことも大切にしながら?
仕事より、家族の方が大事ですね。どんなにカッコいい飲食のプロたちでも、家族関係が悪いひとのことは、カッコいいと思えなくて。もちろん、もっと働きたい、もっと研究したいという葛藤もありますが、きちんと切り分けています。会社も、家庭がありつつ働いている人間への理解があります。それに、家族を優先して日々の業務で予算に足りなければ、自分でイベントをやったりして挽回する。そういうこともやれています。
●店舗でのイベント企画は、それこそ、武器である情報力や、大学時代からインプットしてきたものをアウトプットできる機会になっていそうですね。いつか自分の店でも、そうしたことをおこなっていきたいですか?
それでいうと、でも、まだまだ足りていないことばかりだと感じています。現時点でできる範囲で表現しても、趣味っぽくなってしまうと思う。だから、いまはそこに注力するより、“いいもの”をつくるみたいなことにもっと集中したいんです。
●“いいもの”とは?
ひとを感動させて、その記憶に残って、人生を変える力があるもの。それは、“つくり続けてきたもの”だと思っています。一過的で実験的なものではなくて、じっくり時間をかけてきたもの。たとえばオリジナルカクテルって、数年後には名前も思い出せなかったりします。でも、クラシックカクテルであるマティーニなら、だれかの一生の記憶に残り続けることができる。コーヒーなら、フラットホワイトをつくり続けるとか、ハンドドリップをとにかくおいしく淹れる。それをとにかく追求する。ありきたりな言葉ですけど、「神は細部に宿る」。いまはそれがいいなって。
●職人性に近いでしょうか。その追求には終わりがなさそうです。
バーで働いていたとき、毎日毎日ジンリッキーをつくって先輩に飲んでもらっていた時期があります。あるとき、「これ、おいしいと思ってるの?」って聞かれて、言い淀んでしまい、怒られたことがあります。「素人のお前がおいしいかどうかわかってないものを、10年以上やってる俺がおいしいと思うわけないだろ!」って。せめて自分がおいしいと思っているものを出すこと。そこかなと思います。自分が納得できるものを出し続けるしかないのかなと。
Profile: 工藤 海 Kai Kudo
代々木上原カフェバー『No.』でヘッドバリスタ兼、ロースター、カフェマネージャー、企画を務める。主な企画として、ロースターに着目してコーヒーカクテルの魅力と可能性を探求していくプロジェクト「The Roasters Cocktail Club」主催。
Shonan Barista Champion Ship 3rd
Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : mitsuharu yamamura(BOOKLUCK)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)
2025.12.5