CHAPTER Vol.5 【EAT】

早野 拓真 (23)

おむすびスタンドANDON 店長

標高600mにある全寮制学校で、小・中・高、環境・社会問題への興味関心をすくすく膨らませた。文化をいかにつたえひろめるかを本気で考え行動する大人たちと出会い、場づくりにこだわるように。ことさら、“食”の持つちからを信じて。

CHAPTER

今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を

CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。



●出身地はどちらですか?
厳密にいうと、生まれは埼玉県の小川町なのですが、生まれてすぐに千葉県の市原市に移りました。

●幼少期はどのように過ごしましたか?
友達と遊んだ記憶くらいしかないですね。小さい頃は水泳やサッカーなどのスポーツをいくつかやっていましたが、サッカーでいうポジション争いとか、“順位づけ”がきらいでした。ただ単純に運動をするのが好きだったので、野球なんかはかなりのめりこんでいましたね。

●小学生の頃のことについて訊かせてください。
小学1年生までは、地元の小学校に通っていて。その後、2年生の12月に、和歌山県にある「きのくに子どもの村学園」という学校に転校しました。

●小学2年生というと多感な時期ですが、転校に戸惑いはありませんでしたか?
あまり気にしなかったかもしれません。『きのくに子どもの村学園』(※1)に体験入学してみて、その環境に魅力を感じたことも大きかった。標高600mの山のうえにあるのでまわりに自然はいっぱいだし、宿題はなければ、昼休みも長くて、おまけに全寮制なので、放課後は寮に帰って寝るまでずっと好きに時間を使える。小学生の僕にとっては、まさにオアシスでした。転校して、最終的には小・中・高と10年間をそこで過ごしました。

※1:1992年、和歌山県橋本市の山中に開校し、戦後はじめて学校法人として認可された学校。教育理念は、自己決定、個性、体験の尊重。教師も児童生徒も同じ一票を持つミーティングなどを重視する。現在は、かつやま子どもの村小中学校、南アルプス子どもの村小中学校、北九州子どもの村小中学校、ながさき東そのぎ子どもの村小中学校などがあり、子どもたちの多くが寮生活を送りながら学ぶ。


標高600mの山のなかで、ただ己のみ。逃げられないからこそ、考えなければならなかった。


●ご両親の教えで、いまでも大切にしていることは?
その転校こそ、そもそもは親の勧めがきっかけで、おかげでありがたい経験をさせてもらいました。でも基本的には、これまでわりと両親の価値観と戦ってきた人生でした。まわりと同じように当たり前に大学に行って就職する、とか、「こうあるべきだ」みたいな教えを古臭いと感じてしまうことが多くて。そうした既成概念とはできるだけ距離をとって、新しい道や方法を選ぼうとしてきました。だから、両親はいつも反面教師だったかもしれません。

●具体的なエピソードはありますか?
基本的にはいつも強行突破でした(笑)。「ダメ」と言われるのがわかっているから、なにも言わず行動して、事後報告。でも、転機になったのは、中学1年生の頃友達と一緒に往復150kmくらいの自転車旅に出たときのこと。当時は、家から30分圏内のTSUTAYAに自転車でいくことすら許されていなかったので、まず泊まりなんて言語道断だし、そもそも自転車を買うところからはじめなければならない。そのときは、自分で行き先の情報を調べて、細かくスケジュールを組んで、しっかりと計画をたてたうえで、それを親に提案してみたんです。すると、結果的に許可を得ることができて。当時の自分にとって、それは大きな成功体験になりました。

●『きのくに子どもの村学園』での生活について、詳しく教えてください。
土日も実家に帰らず、友達みんなでわいわい一緒に過ごす時間は、単純にたのしかったですよ。自分で生活するちからも、自然と身についていきましたし。充実した寮生活だった。でも、本当に、人生の酸いも甘いもまなんだな、と(笑)。「年齢のわりに大人っぽいね」なんて言われることが多いのですが、それはきっと、その寮での体験がもとだと思います。同じ仲間と24時間一緒にいるので当然喧嘩もするし、ぜんぜんタイプの違うひとや、きらいなひととも行動をともにしなければならない。そんななかで、自分はどう立ち回ればいいかとか、このグループではどういう役回りなのかとか、そうしたことを常日頃から考えていました。なによりそこは標高600mの山のなかだったので、ただ己のみ。逃げられないからこそ、考えなければならなかった。


●『きのくに子どもの村学園』の、教育の特徴は?
一番は、自主性を育てること。たとえば一般的な小学校のように、「1年生で教わる算数はここからここまで」といった決まりや区分けがありません。1年生の頃は「プロジェクト」という授業があって、建物をつくったり、劇を制作したり、遊びとまなびの中間のようなことをします。建物をつくるには、本来は2年生で教わる算数も使わなければならないし、劇をやるには、1年生では習わないことばを知る必要があったりする。そうやって、実践によってまなびを得ていくわけです。

●中学校に入ると、どんなことをまなんでいくのですか?
もちろん一般的な理科や英語といった授業も入ってきますが、小学生のときのまなびの延長のような授業も、引き続きあります。僕は「動植物研究所」というクラスに入っていて、「ひとと自然のかかわりを探る」というテーマをたて、山のなかで仲間たちとフィールドワークをおこなっていました。「いい自然って何だろう?」、「人間が介入している自然は、いいのかわるいのか」みたいな話も、同級生とガチンコでしていましたね。そして高校では、そうしたまなびがさらに濃く、深くなっていく。環境問題や社会問題について、ひたすら考えていました。


文化をいかにおもしろく伝えひろめるか、本気で考え行動している大人たちがいた。彼らと出会い、ことさら“店”や“場所”をつくることに興味を持つようになった。


●そうして環境や社会に目を向けはじめ、将来やりたいことなども徐々に見据えるようになっていったのでしょうか?
僕、最初の夢は昆虫博士だったんです。『どうぶつ奇想天外!』っていうテレビ番組があって、千石先生という爬虫類専門家が出演していました。彼のようになりたかったんですよね。そんな思いを抱えながら中学校では環境問題などに触れる機会が多く、そうしたことに関心を持つように。で、高校時代には農業や社会問題にまで関心を広げました。それで実際に、夏休みを使って、映画や本に登場している気になったひとたち全員にコンタクトを取って、会いに行ってみたんです。話を聞いてみると、世のなかをよりよくするために行動を起こしているひとたちがこんなにもいる、と気づいて。そうしたひとたちと一緒に仕事をしたいと思うようになりました。

●その時期に会ってみたなかで、とくに印象に残っているひとや団体はありますか?
たとえば、山梨県の味噌蔵「五味醤油」(※2)や、鳥取県のパン屋「タルマーリー」(※3)など、文化や社会的課題をおもしろく伝えひろめながらも、解決方法を本気で考え行動している大人たち。そうしたひとたちとの出会いから、僕も、“店”や“場所”をつくることに興味を持つようになりました。

※2:明治元年から150余年にわたって、味噌、醤油の製造をはじめ、醸造業をいとなむ。 昔ながらの製法にこだわり、目の届く範囲で天然醸造をおこないながら、地方色ゆたかな発酵食品やその食文化を発信する。

※3:自家製天然酵母パンやクラフトビールを製造販売する。2008年、渡邉格・麻里子が夫婦共同経営で、千葉県いすみ市に開業。自家製酵母と国産小麦だけで発酵させるパンづくりをはじめる。培った発酵技術を活かし、野生の菌だけで発酵させるクラフトビール製造を実現するため、2015年鳥取県智頭町へ移転。元保育園を改装し、現在は、パン、ビール、カフェの3本柱で事業を展開する。

●高校卒業後はどのような進路に進みましたか?
1年間はインターンをやりながらフラフラしていて、僕のなかでは「ギャップイヤー」と呼んでいます(笑)。インターン先は、地方創生の聖地ともいわれている徳島県神山町で、食育、農業、レストラン運営をおこなっている会社。また、島根県の『群言堂』の母体が運営する、石見銀山のふもとにある古民家宿『暮らす宿』(※4)でも働きました。いいところがあったらそのまま働かせてもらいたい気持ちでしたが、インターンを続けるうち、「違うな」と思いはじめて。そのあと実家に戻って、2、3ヶ月後、『ANDON』(※5)に就職しました。

※4:かつて日本一の銀産出量を誇った石見銀山のふもと大森町に構える古民家宿。地域のありのままの暮らしを、そのままたのしめるような滞在体験を重視し、提供する。「群言堂」ブランドなどを展開する石見銀山生活文化研究所の関連拠点でもあり、滞在中は、研究所の活動から生まれた空間も見学可能。

※5:日本橋・小伝馬町に構えるおむすびスタンドであり、おむすびスタンド。秋田の日本酒の立ち飲み、本屋、イベントスペースなど、同じビルの1階から4階までが多彩なテーマで構成される、食とカルチャーの発信拠点。さまざまなな交流を生む、現代の長屋。

●「違うな」とは、どんなところに対する違和感でしたか?
たとえば『暮らす宿』は、日本のむかし暮らしをご飯や空間を通じて伝える素敵な場所です。でも、僕は、もうちょっと混ざり合っていられる環境で働きたいと感じました。さまざまなひとが行き来する、偶然性の高い場所で。


世のなかの動きに応じて、上がったり下がったり、ひたすら“スクワット”していた。いつのまにか足腰は強くなり、少しずつ職場にもコミットできるように。働きながら自分のことも見つめなおし、考えることもできた。制限があったからこそ、得られるものもあった。


●『ANDON』との出会いは?

インターンを終えて実家に戻って、改めて職探しをはじめました。当時クラウドファンディングをやっていた『ANDON』のことは知っていて。というのも、ソーシャルビジネスで活躍するひとたちを取材するメディア『greenz.jp』(※6)が運営にたずさわっていたから。僕が興味を引かれたのも、最初はその文脈からでした。当時、ちょうど人材募集がかけられていたタイミングだったので、応募して、そして採用されました。それが2019年3月のこと。イベント企画のアルバイトと掛け持ちで働きはじめて、いま3年目です。

※6:関係性のデザインを探究し「いかしあうつながりがあふれる幸せな社会」を目指す非営利組織NPOグリーンズが運営するWEBマガジン。2006年に創刊した非営利メディアで、日本全国、世界各地の「いかしあうつながり」事例を取材・発信する。

●どんなことを経験してきましたか?
じつは入社1ヶ月後からは、いまも『ANDON』に海苔を卸してくれている築地の『伊藤海苔店』がいとなむ抹茶ラテスタンド『Matcha Stand Maruni』(※7)で働くことになったんです。その立ち上げを手伝うかたちで配属されて。当時は外国人観光客もいたので、茶器なんかも、とにかくバンバン売れるんですよ。そこで働きながら、最初は日本文化を伝えることにやり甲斐を感じていましたが、それを半年くらい続けていると、どこか違和感を感じるようになって。ただただ消費されていくだけで、外にばかり目が向いていて、日本のひとたちにはまったく伝わっていないんじゃないか、と。

※7:創業100年を超える老舗海苔専門店「伊藤海苔店」が、築地場外市場にオープンした日本茶専門店。抹茶や煎茶を実演をまじえて提供し、見て飲んで楽しむ新しい”茶道”を提案する。


●というと?
当時は、なにかを伝えるより、とにかくモノを売ることでお店がまわっていました。もちろんモノが売れればつくり手が豊かになりますが、僕は、つくったひとの話なんかを、もっとじっくり伝えていきたかった。そんなことに葛藤している頃、『ANDON』のオーナーが一部たずさわっていた『発酵デパートメント』(※8)が下北沢にオープンすることを耳にして。以前から好きだった発酵デザイナー・小倉ヒラクさんがオーナーを務めているということで、是が非でもそこで働きたいと面接を受け、採用されました。

※8:下北沢BONUS TRACK内に構え、「世界の発酵みんな集まれ!」を合言葉に、醤油や味噌をはじめ、各地のユニークな漬物や酒など、発酵にまつわる幅広い商品を扱うショップ。

●『ANDON』で働きながら、おりおりの流れにも身を任せつつ、フットワーク軽くいろんな場所で働いてきたわけですね。『ANDON』の店長になったのはいつですか?
ちょうど1年前くらいです。そこからは、まさに苦労の1年でした。右も左もわからないまま店長になって、コロナは相変わらずなので、以前のように売り上げは上がらない。でも、僕が責任者である以上はなにかしなければならないし。基本的にはずっとワンオペだったので、モチベーションを保つのも一苦労でした。

●そんななか、どのように自分を奮い立たせていたのでしょうか?
どう頑張ってもなにも企画できないという時期も経験しながら、世のなかの動きに応じて、少しずつできることも増えてきて、でも、またできなくなって…。上がったり下がったりを繰り返しながら、前に進めずひたすらスクワットしてる、みたいな状況が続きました。でも、いつのまにか足腰はめちゃくちゃ強くなっていた、みたいな実感もあって。できないこともたくさんあるなか、少しずつ『ANDON』にコミットできるようになる自分のことも認めることができたし、なにがしたいとか、なにが得意かとか、ここで働きながら自分のことも見つめなおして、本当にやりたいことについてじっくりと考えることもできた。制限があったからこそ、得られるものもあったんです。


困難な状況のなか、支えてくれたのはまちの仲間。むしろコロナ禍に救われた部分もあるかもしれない。

●困難が多い時期を乗り越えるのに、頼れる先輩や仲間はいましたか?
一番支えてくれたのは、同じ日本橋のまちで、それぞれに頑張ってお店を切り盛りしていた仲間たちですね。『CITAN』(※9)のみんなもそうですが、コロナになってから一層コミュニケーションを取るようになって、そうした横のつながりに、いつも助けられていました。ひとりで店に立って鬱屈する気持ちも、外に出て迎え入れてくれるひとたちがいると思うだけで、和らぎました。いろんなイベントや企画もまちのなかで生まれていきましたし、その一員に加われたのは、なにより大きかったですね。そういう意味では、むしろコロナ禍に救われた部分もあるかもしれない。

※9:2017年に馬喰町・東日本橋エリアに開業したホステル。地域に寄り添うコーヒースタンドや、さまざまな人が集い気軽に楽しむバーダイニング、DJやアーティストとともに音楽を楽しむラウンジで構成する。名前の由来は日本語の「始端」に由来し、五街道の起点でもある日本橋の土地同様、人や物が自然と集まり、新しい出会いの生まれる、始まりの場所でありたいという願いが込められた。

●早野さんと同じように、そのまちのだれもが仲間を求めていたからでしょうか。まわりに目を向け、自分たちのまちをよくしていこうという意識が、コロナ禍によってドライブされたのかもしれませんね。
オフィス街もあれば、創業何百年という企業もある。そのなかに、新しいお店も混ざって、新参・古参の垣根なく、みんなでなにかを一緒にやる。そうした独特のグルーヴが、日本橋にはある気がします。

●これからさき、『ANDON』を通して実現していきたいことはありますか?
まずは、チームとして、お店をもっとおもしろくしていきたいです。じつは7月にはこのビルのリノベーションが決まっていて、2、3階部分には新たなテナントに入ってもらうことになっています。そうした変化も含めて、今年は、動き出す年にしたいですね。


言葉や行動には賞味期限があって、しかも想像以上に短い。だから、既存のルールのなかで仕組みをつくりだし、“場”として残したい。


●かねてから“店”や“場所”をつくりだすことに重きを置きながら、ずっと食が切り口にあったようです。早野さんにとって、“食”とは?
食の持つ伝えるちからって、言葉よりずっと大きいと思っています。時間をかけて説明するよりも、食べたその瞬間“おいしい”って感じることのほうが、はるかにたくさんのことを伝えられると僕は思っていて。同時に、モノが持つちからだけでは弱いと思うところもあります。そこに伝えひろめられるひとがいれば、よりおいしくなるし、たのしくできる。だから、店や場づくりにこだわっているんだと思います。また僕にとって、「今日はいい日だったな」と記憶に残るひとの笑顔あふれる景色は、いつもご飯とむすびついています。

●食とむすびついた記憶で、とくに思い出深いものはありますか?
料理が好きな母だったので、原体験でいうと、やはり家庭の食卓ですね。お酒を飲めるようになってからは、友人たちとの集まりで思い出に残っていることもたくさんあります。面と向かって話をするのが緊張するような場面でも、おいしいご飯がそこにあると、自然とほぐれたり、いい話ができたり、ふだんとは違う一面を見せられたりするんですよね。

●これまでの人生でのまなびを教えてください。
シンプルですが、やりたいことはやったほうがいい、ということ。あれこれ頭で考えるより、とりあえずやってみる。どんなに大変でも、やってみることでしか変わらないし、越えられない。実際、それでやってきた人生だと思います。

● 最後に、将来の夢を教えてください。
世のなかに、おもしろい場所をたくさん増やしたいです。とくに中高時代から考えているのは、おこがましいですが、第一次産業の価値を上げること。安いものや早くつくられるものが一概に悪いとは言いませんが、そうじゃないものの価値やレベルを上げるお手伝いをできたらいいなと思っています。もうひとつ、いつかどこかの山を買って、トレランやマウンテンバイク用のコースをつくったり、麓に銭湯をつくったり、薪を使う飲食店を運営したりと、山をたのしむことを通してさまざまなことを伝えられる場所をつくりたい。自然をポジティブにたのしむひとが増えれば、難解そうに見える環境問題や社会問題も、多くのひとがもっとシンプルに捉え、意識を向けてくれるはずです。これは結果論になってしまいますが、環境活動家のグレタさんもしかり、若い世代が世のなかにアンチテーゼを唱えても、決まって一過性のブームに終わってしまうように思っています。それは、言葉や行動には賞味期限があって、しかもそれが想像以上に短いから。なら、資本主義を否定せず、いまあるルールのなかで仕組みをつくりだし、場として残していくこと。それができれば、社会に大きなうねりや新しい循環を生み出せるはずだと、そう信じています。


Profile:早野 拓真

おむすびスタンドANDON店長。千葉県出身。
和歌山にある宿題・テストもない自由な校風の学校『きのくに子供の村学園』を卒業後、合同会社ANDONに入社。現在は店長業務、イベント企画などを担当。ご飯とサウナが大好き。

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Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : Gaku Sato

2022.05.23