吉田 康太郎 (28)
幼少期から共有してきた時間や経験が、きっとなによりも強い。共通認識を武器にたたかう”健康”兄弟が、ゆだねつつ束ねる、新時代の飲食店。
CHAPTER
今を生きる若者たちの
生き方と明るい未来の話を
CHAPTERは、EAT、LISTEN、EXPRESS、THINK、MAKEをフィールドに、 意思を持ち活動する20代の若者たちに焦点を当て、一人ひとりのストーリーを深く丁寧に掘り下げることで、 多様な価値観や生き方の発信を目的とするメディアです。
●出身地はどちらですか?
横浜で生まれました。幼い頃は、大学の教授をしていた父親の仕事の都合で、年に何度も海外へ出かけていました。2歳のときにフロリダ、5歳のときにボストンと、それぞれ1年間滞在していた時期もあります。
●その頃のことで印象に残っていることは?
美術館や野球観戦に連れて行ってもらったりしていました。当時ボストンで活躍していた小澤征爾のオーケストラに連れて行かれたりしたのを、ぼんやり覚えています。
●BIG BABY ICE CREAMやNOONをともに運営しているお兄さんがいますね。幼い頃から兄弟で仲がよかったのでしょうか?
2つ上の兄、健太郎ですね。とにかくずっと一緒に遊んでいましたよ。もう少し大きくなってからは、兄と一緒に美術のスクールみたいなものに通ったりも。健太郎はのちに武蔵美(※1)に入ることになるのですが、それが原体験かもしれませんね。中学高校もそのまま、健太郎と一緒に人生を歩んできた実感があります。
※1:武蔵野美術大学。1962年に東京都小平市に設置された私立大学。原研哉や高橋幸宏、村上龍など数々の著名人を輩出してきた。
●ふたりの中学高校時代について教えてください。
中高は野球にのめり込んでいました。もとをたどれば、僕が小学1年生のときに父親が少年野球チームをつくって、そこで僕ら兄弟はバッテリーを組んでいた。俺がピッチャーで、健太郎はキャッチャー。その後も野球を続けて、いまでも野球は大好きです。ちなみに、親がつくったその少年野球チームはいまも存続しています。
いつか兄と仕事をしたいと、高校生の頃から考えていた。幼い頃に兄弟で過ごした時間や経験からくる共通認識は、ほかのだれにも絶対に越えられない自負があった。
●学校でも、学校外でも、いつも健太郎さんと一緒に過ごしていたんですね。
高校時代には、これといった思い出がないかもしれません。大きな転機になったのは、健太郎がひと足先に大学に入ったこと。
●それが、武蔵野美術大学ということですね。
健太郎が大学に入って、いろいろと課題をこなしたりしながらすごく生き生きとしていた。その様子を横目に、うらやましく思いながら、そのとき、健太郎と一緒に仕事をしたい気持ちが芽生えました。僕が高校2年生の頃です。
●なにがそうした気持ちにさせたのでしょう?
幼少期に、ボストンやフロリダに行ってふたりで過ごした時間や経験を思い返すと、「これ」と言えば「これ」とわかって、「あれ」と言えば「あれ」と伝わる風景とか音楽とか、そういう共通認識は絶対にほかのだれにも負けないと思ったんです。
●その後、康太郎さんも大学へ進学した?
明治大学へ行きました。本当は、健太郎と同じように武蔵美に進みたいとも思っていました。でも、一緒に仕事をすることを考えると、兄弟で同じことをやっていても意味がない。それで、商学部に入って学ぶことにしたんです。
バワリーキッチンで働きながら、その場のなにもかもが生き生きと輝いている景色を見せられたとき、「これを仕事にしたい」と瞬時にわかった。
●実際に店を開くにいたるまで、大学時代をどんな風に過ごしてきましたか?
まず、入学式の翌日、健太郎から山本宇一さん(※2)を紹介してもらって、『バワリーキッチン』(※3)で働くことになりました。というのも、健太郎が大学1年のとき、「表参道の『モントーク』(※4)を、自分ならどんな風につくるか」という課題をやって、そのときに宇一さんの目にとまり、懇意にしてもらうようになったんです。僕の話もしてくれていて、それで、「兄弟で店をやりたいなら」と宇一さんからビシバシ指導を受けることに(笑)
※2:heads代表。1963年、東京生まれ。都市計画や地域開発などのプランニングを経て飲食業界に転身し、1997年に「バワリーキッチン」をオープン。2000年以降は、「ロータス」や「モントーク」といった人気店を手掛け、東京カフェブームの立役者となった。
※3:1997年、駒沢公園通りにオープンしたカフェレストラン。
※4:2002年にオープンした表参道のカフェ・ラウンジ。ファッションブランドのイベント会場に多く使われ、アーティストやクリエイター、芸能人からも愛されてきたコミュニティの場。2022年、その20年の歴史に幕を下ろした。
●そのとき、飲食業界の入り口に立ったというわけですね。
1年半働いて、サービスの基礎から店のつくりかたまで、何もかもを教わりました。宇一さんは飲食店とはなにかを教わった恩師であり、『バワリーキッチン』は日本の究極の飲食店だと、いまでも思っています。
●バワリーキッチンで働きながら、自らも飲食店をやると決めるにいたった、その理由やきっかけは?
店で働いていると、ときどき鳥肌の立つような場面があるんです。お客さんがリラックスしてたのしんでいて、働いている側も生き生きとして、音楽もいい、流れる時間もいい、そんな、ぜんぶが一致しているような瞬間。その景色を見せられたとき、度肝を抜かれて。「あ、これを仕事にすればいい」と瞬時にわかりました。
●店を開くために、大学時代にほかに力を入れたことはありますか?
国内外の飲食店に、とにかく行きまくってました。なにがかっこよくて、なにがダサいのか、そうしたことを自分たちの目で見極めようと。大学3年のときには、ヨーロッパの飲食業界が気になって、1年間休学してロンドンへ行きました。日本に戻ってきたとき、ちょうど兄が働いていた会社を辞めてフリーランスになるタイミングだったこともあり、「よし、やろう」と、そのままもう1年休学することにして、そして新丸子の商店街に『BIG BABY ICE CREAM』をオープンしました。
●どうしてアイスクリームだったのでしょう?
スモールビジネスではじめるのが性に合ってると思ったのがひとつ。もうひとつは、まずは自分のルーツにまつわることをやるのがいいと思ったから。母方のおじいちゃんはこんにゃく屋をやっているのですが、夏はこんにゃくの代わりにアイスの卸しや製造をやっていたんです。休学期間が終わってからは、週5で大学に通いながら、週6で店舗に立っていました。2020年9月にようやく卒業したばかり。お店としては、今年で4年目です。
自分たちの世代じゃないと表現できないボーダレスな感覚を、明快なコンセプトとともに、カウンターカルチャーとして発信したい。
●バワリーキッチンでの経験や、世界の飲食店を巡ったことでの気づきをもとに、とりわけ店づくりに生かしたことは何ですか?
コンセプトと店の実態を一貫させること。コンセプトといっても、僕らは形容詞やあいまいな言葉で自分たちの店を表現しないようにしています。そこには、かならず固有名詞を用いる。たとえばBIG BABY ICE CREAMなら、「3世代で楽しめるアイスクリームダイナー」。だから、店にはおとなのためのカウンター席があって、家族連れがくつろげるL字のシート、そして若者たちが座れるハイスツールがあります。「アイス屋」じゃなくて「アイスクリームダイナー」だから、モーニングもやるし、夜遅くまで営業してお酒も出す。
●なるほど。
一方、NOONのコンセプトは「ニューアジアンスタンダード」。僕らは毎年、成田さん(※6)をはじめ同じ業界の仲間たち15人くらいで韓国旅行をするのですが、昼は美術館やカフェ、本屋やレコ屋などを巡って、夜はめちゃくちゃ汚い居酒屋でチャミスルを飲んで、クラブに行く。そういう1日のなかにある二面性を、店で表現したいと思ったんです。自分たちの感覚を通した、アジアの新しい基準をつくりたかった。だから、NOONではスパゲティを出したっていいんです。僕らの世代は、ピザもグラタンも食べるし、でも、寿司だって食べる。そうしたボーダレスな感覚は、僕らが表現すべき役割をになっていると思っています。少し上の世代は、アメリカのカルチャーに憧れを抱いてそれを体現してきました。だからこそ、それをいま僕らがやってもつまらない。カウンターカルチャーみたいな意味合いも、この店には込めています。
※6:「Bar Werk」店主・バーテンダー。「Tas Yard」店長、「Bar TRIAD」ゼネラルマネージャーを経て、フリーランスのバーテンダーとしてイベント等で活動。2019年9月に「Bar Werk」をオープンした。”健康”兄弟が兄と慕う存在。
●具体的な言葉やイメージがあるから、店づくりはブレないし、翻ってむしろ広がることもできると。
とはいえ、コンセプトはガチガチに固め切らず、いつも80%くらいがいいとも思っています。余白も大事。変に文脈をつけすぎると、お客さんも居心地悪く感じるだろうし、たのしめないと思うから。自分たちの考えだって日々変わるし、社会も変わるし。
完成されたものは、どこか味気ない。ゆだねつつ、最後は兄弟で束ねながら、チームづくりに苦戦する不安定な店の姿も、ときに見せたい。
●いまでも店頭に立っていると伺いました。
僕も健太郎も立っていますよ。12連勤とか、いまでもザラです(笑) 現場に立っていないとわからないことだらけなので。ちょっとした変化に気づけないと、新しいものは出せません。
●お店をやるうえで苦労していることは?
長期的にいいものを出すために、いいチームをつくること。少し前まではティール組織みたいなものを目指していましたが、あるとき限界を感じてしまった。やはりなにごともトップダウンで自分が指示を出したほうが早いし、表現できるし、スタッフたちもラク。一番長く店に立って、四六時中店のことを考えているのは、間違いなく僕ですから。とはいえ、トップダウンでいくのは最後の最後。普段は、あまり口を出さないようにしています。つい口を出しちゃうときもありますが、そういうときって、決まってうまくいかないんです。
●ある程度ゆだねながら、最終的にはうまく束ねていく、といった感じでしょうか。
そうですね。兄弟でやりながら、ダブドリしながらファールなんだけど、でも進み続けている。そんな実感もある。まとめるのは非常に大変ですが、でも、その不安定な姿もあえて外に見せてしまっていいのかもなと。完成されているものって、どこか味気ないですし。
●これから先の店の姿や、将来の夢について教えてください。
新丸子を拠点にアイスが溶けない距離で、ダイナーの要素をそれぞれに散りばめた5店舗を出すことは、最初から決めています。5店舗目は、それまでの店舗の要素を集約したダイナーにしたいと考えていて、場所ももう決めてあるんです。バワリーキッチンを卒業したあと、自由が丘のアメリカンダイナー『バターフィールド』で働いていました。店主にとてもかわいがってもらったのですが、少し前に亡くなってしまった。だから、その店があった場所を引き継いで、5つ目の店を出す。それが一番の夢です。
●最後に、人生のまなびを教えてください。
自分の経験したことや、自分が考えた時間、聴いてきた音楽、見てきた景色、そうしたものでしか表現はできないこと。
Profile:吉田 康太郎 Kotaro Yoshida
BIG BABY ICE CREAM/NOON/PARLOR NOON オーナー
株式会社DINER 代表。1994年生まれ神奈川県出身。
2018年に新丸子にアイスクリームダイナー「BIG BABY ICE CREAM」をオープン。グッズ展開や卸製造も行う。
2020年目黒に”New Asian Standard”をコンセプトに掲げたアジアンレストラン「NOON」、翌年に同ビル2Fに「PARLOR NOON」をオープン。
Text : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Photo : Masahiro Kosaka(CORNELL)
Interview : Gaku Sato
2022.07.23